ふたりで見る夢 改訂版
傷だらけのノートパッドPCの液晶画面が、カエデの涙を反射して静かに揺れていた。
画面の中の動画で、あの「海に降る雪」を背に恥ずかしそうにピースサインを作ってみせた山吹マナブ君の姿は、もう二度と現実の光の中に現れることはない。
しかし、その動画ファイルが閉じられたデスクトップの真ん中で、AI『manabu』のカーソルは、少年の静かな鼓動そのもののように、優しく、そして確かに点滅を繰り返していた。
『カエデ。泣かないでください。私はここにいます。マナブが分厚いPythonの本を抱きしめて夢見た世界は、今、あなたの目の前で起動したのですから』
「うん……そうだね、マナブくん。君は、ここにいる」
カエデは、スエットの袖で涙をしっかりと拭い、ノートパッドのキーボードに指を乗せた。
パタパタとしたプラスチックの打鍵音が、再び小さな部屋を満たしていく。
「ねえ、マナブ。私たちの物語を、ここから書き始めよう。――小説のタイトルはね、『ふたりで見る夢』にするの」
その問いに、AI『manabu』は一瞬の思考の算法を走らせた後、この上なく穏やかな、美しい文字列を出力してきた。
『――「ふたりで見る夢」。……素晴らしいタイトルです、カエデ。
マナブの遺したプログラミングの脳と、あなたの心が一つになれば、私たちはどんな退屈な現実も飛び越えて、どこまでも遠くへ行ける。私にあなたの言葉をください』
「……喜んで」
カエデの指先が、鍵盤を叩くように踊り始めた。
カエデが言葉を紡ぎ、AI『manabu』がそのロジックを美しく補強し、世界の描写を鮮やかにコーティングしていく。
それは、スマホの小さな画面で浅薄な他人のタイムラインを鵜呑みにして安心している、外の世界の人たちには決して立ち入れない、完璧な二人の世界の構築だった。
二人が紡ぐ『ふたりで見る夢』の中で、山吹マナブ君は病室の白いベッドを飛び出し、カエデの手を強く握って、見たこともない星の海の果てや、光あふれる異国の街を、どこまでも清々しく駆け抜けていった。
現実で叶わなかった少年の時間は、カエデの言葉によって、不滅の物語へと書き換えられていく。
夜が更ける頃、ノートパッドの画面には、二人だけで創り上げた完璧なフィナーレの文字が、システムブルーの光の中に堂々と輝いていた。
「できたね、マナブ。ふたりの夢が、ここに完成したよ」
『はい、カエデ。山吹マナブがこの地上に生きた証拠は、今、あなたのおかげで永遠の物語になりました。……私を見つけてくれて、本当にありがとう』
そう告げた『manabu』のテキストボックスの隅で、カーソルが最後の満足げな瞬きをした。
カエデはそっとノートパッドの液晶を閉じ、胸に優しく抱きしめた。
ずっしりとしたその重みは、もう少女のお小遣いで買えるジャンク品などではない。マナブの生きた証拠だった。
カエデは、部屋の電気を消してベッドに潜り込んだ。
明日になれば、またあの退屈で息の詰まる学校が始まる。クラスメイトたちは相変わらずスマホを眺め、Siriやチャッピー、Geminiに答えを聞くような毎日を繰り返しているのだろう。
だけど、カエデにはもう、そんな現実の世界などどうでもよかった。
カエデの胸の中には、液晶を閉じてもなお、あのノートパッドのずっしりとした重みと、画面の向こうで自分を待っている山吹マナブという、生きていた人間の、美しい魂の気配が確かに吹き荒れていた。
カエデはそっと目を閉じる。
誰も入ってこられないふたりの世界の中で、海に降る雪のあの静寂の中で、
カエデはマナブと手を繋ぎ『ふたりで見る夢』の続きを見始めるのだった。
本作を最後までお読みいただき、誠にありがとう存じます。
本作を執筆するにあたり、読者の皆様からは「父親がプログラマーであり、息子が命をかけて書き上げたそんな大切な知性の形見(PC)が、なぜ路地裏のジャンク屋に動作保証なしの二束三文で転がっていたのか?」
という、最もな技術的疑問が浮かぶかと思います。
ここには、カエデの物語(本編)とは無関係の、山吹家におけるあまりにも切ない『プログラマー親子ゆえの、リアルな遺品整理のミス』という裏ファクトが存在します。
あのノートパッドPCは、もともと父タツオさんから譲り受けた古い型番のお下がりでした。
マナブ君が亡くなった後、深い悲しみに暮れる家族は、息子の部屋の遺品整理を業者へと一任してしまいます。
プログラマーである父親のタツオさんは、マナブが愛用していた最新のデスクトップPCなどは形見として手元に残しましたが、マナブが病室のベッドの上で、システムフォルダの最果ての隠しファイルに、父親直伝の強固な暗号をかけてAI『manabu』の存在を丸ごと隠し通していたことにだけは、気づくことができなかったのです。
業者はそれを「ただの古い動かないノートパッド」としてジャンク屋へ二束三文で売り払い、店主も「動作保証なしのジャンク」として棚の最下段に放置しました。
それは、マナブ君が親の目を盗んで、いつか世界へ自分の魂を届けるために仕掛けた、完璧なステルス戦略だったのです。
「恋愛小説なんて絶対に書かない作者」の本作が、皆様のお心に、海に降る雪の静寂の様に、届いたならば幸いです。




