第37話 たわいない会話
研究所の奥にあった日記を読み終えた時、俺の中に残ったのは同情でも恐怖でもなかった。残滓だ。焦げた思考の煤。失敗した研究者が部屋に置き忘れていった見えない埃のようなもの。
「……まぁ、予想通りだな」
ただの嫌われ者の末路だった。パンドラの箱を開けたら聖母の聖遺骸が入っていたくらいつまらない。
本を閉じて懐に入れる。人に利用され、悪魔に魅入られ、そして自分自身が最も嫌われる存在になって死んだ。それだけの話だ。
ありふれた少女と魔女のすれ違いの物語。ただ、物語としては三流だが真実を知る教材としては一流だった。
俺は部屋を後にした。あの虫の地獄をこのまま放置する気はない。研究所というのは多少の血と内臓には寛容であるべきだが虫が蔓延るのは別問題だ。衛生は思考の明瞭さに直結する。
通路に出ると、ちょうどゴーレムマンが一体だけ壁際に立っていた。いつも通り無表情、というより表情を作る機能が実装されていない顔で俺を見下ろしている。
「おい」
「はい しゅたいん せんせい」
「さっきの部屋、虫掃除を頼む。床と壁と、できれば空気もだ」
「むし そうじ りょうかい しました」
ゴーレムマンは淡々と頷いた。こいつらはいい。余計な感想を言わないし、倫理観を挟まない。命令と結果の間に感情というノイズが存在しない。
「奥にある悪魔の口のような扉には触るなよ」
「とびら さわりません」
「よし。それとゴーレムマンAはどこにいる?」
「そと そうじ しています」
「わかった。キミは作業に移ってくれ」
俺は外へ行く。陽光に目をすがめつつ、周囲を見回すとゴーレムマンAが出入り口付近の葉っぱを掃いていた。
「A。少し話がある」
「なんでしょう」
「体に異常はないか? 胸が痛むとか、吐き気がするとか」
Aは紅しょうがみたいな色の右腕を動かして調子を確かめている。コイツは野盗だった時に一人だけ火の魔法を使っていた個体だ。つまりフランの菓子を食べている。
「いじょう なしです」
「今まで一度もないか?」
「はい まいにち たのしいです」
「そうか。もし少しでも異常を感じたらすぐに報告してくれ」
「わかり ました」
自室へ戻る。扉を開けた瞬間に視界へ飛び込んできたのはベッドの上で転がるキメラだった。腹這いになり、足をパタパタさせながら本を読んでいる。まるで巨大な猫だ。しかも知性が高い。面倒くさいタイプの。
「どこ行ってたの?」
視線を本から外さずに訊ねてきた。シルフの力で気配を察知できるのだろう。
「浮気をしにな」
「あっそ」
反応が薄い。少し拍子抜けする。
俺は上着を脱いで椅子に放り投げた。キメラは相変わらず足を動かしている。パタパタという音が思考の邪魔にならない程度に耳に心地いい。
「なぁ」
「なに」
「服が欲しいと言っていたが、どんな物がいい?」
キメラは少しだけ顔を上げて、こちらに流し目を寄越してくる。長い銀の睫毛が食虫植物みたいで妖艶だ。
「かわいいの」
「具体的には?」
「うーん……ヒラヒラしてるやつ?」
「なるほど。俺もそういうものは好きだ。人はランダム性のあるものを好む。ヒラヒラと舞う花びらに情緒を感じるようなものだな」
俺は顎に手を当てて頷いた。
「もっと感情のある言い方して欲しいわね」
「キミが望むなら一考しておこう。それより体に異常はないか?」
キメラはため息をついた。
「ないわ。水も、キノコも、風も、花の香りも、金も、問題なく出せるわよ。というか妙に優しいけど、もしかして本当に浮気したの? 別に付き合ってないしいいけど」
ちらりと俺を見る。銀と赤のオッドアイが美しい。
「まさか。俺はハーレムが好きじゃない。人数が増えると合成が手間だからね」
「はいはい。理屈っぽい言い訳はもういいわ」
キメラは本を閉じてベッドに仰向けになる。
「で、どうやって服を作るのかしら?」
「図鑑に載っている“羊植物魔獣バロメッツ”を見つけ、素材を取ってゴーレムマンに作らせる」
「……ゴーレムマンさんにそんな技術あるの?」
「やり方は二通りある。バロメッツを捕獲してから改めて話すよ」
言葉を終えた瞬間、ノックもなく扉が開いた。
「ばろめっつ が みつかり ました タカ」
ゴーレムマンHだ。鷹の翼を羽ばたかせながら報告してきた。
「ベストタイミングだ。キメラ、行こう」
「私も?」
「当然だ。キミとは常に一緒にいたいからね」
「監視でしょ」
「正確には経過観察かな」
「はぁ、堅苦しい」
「そこが俺の個性だ。いつか好きになるよ」
キメラはカルスト地形みたいに眉間へ皺を浮かべて、ベッドから起き上がった。
「さぁ、いざ行こう。バロメッツが待つ森へ」
俺は子供を誘導するハーメルンの笛吹き男のように爽やかな動きで森へと出発した。




