第36話 神具・口寄せの門
研究所の奥。道を覆うように積もっていた土砂はゴーレムマンにより撤去されていた。
俺ですら足を踏み入れたことのない場所。
息を呑む。未知との遭遇はいつだってそそる。
高揚感を抱きながら数歩進んだところで、いや進むまでもなく鼻孔の奥を殴られた。臭い。
喩えるなら蠱毒の壺の底だ。無数の毒虫を詰め込み、最後に残った最悪だけをすくい取った、あの概念的な悪臭。あるいは、煮詰めすぎた地獄の釜の底。焦げついた罪と後悔がヘドロ状になって発酵している感じだ。空気に粘度がある。吸い込むたびに肺が危険だと訴えてくる。
「……なるほど」
俺は布を口元に巻いた。あくまで一応だ。嗅覚を完全に遮断してしまうと危険の察知が遅れる。臭いは情報だ。耐えがたいが無視するには惜しい。
準備が整い、先へと進む。足元は湿っている。ぬかるみというより、床そのものが腐っているような感触だ。靴底が何かを踏み潰す感覚を何度も伝えてくる。パキ、グチャ、という音。生物学的にあまりよろしくない音だ。
通路の先は一つの部屋だった。
扉はすでになく、開け放たれている。中へ足を踏み入れた瞬間に俺は思わず立ち止まった。
堕ちた星、という表現が浮かんだ。空から落ちてきて、粉々に砕け、二度と光を取り戻さない星。その残骸が床一面に散らばっている。
虫の死骸だ。無数。種類も判別できないほど混ざり合っている。殻、羽、脚。そこをまだ生きている蛆虫が這い回っている。白く、太く、脈打つように動くそれらは床自体が呼吸しているかのようだった。
そして部屋の中央。
わずかに人の形を残した“腐った死体”が転がっていた。
顔は判別できない。皮膚は溶けて骨が覗いている。衣服も元の色が分からないほど変色していた。
割れた頭蓋から察するに土砂のせいで頭部が損傷し、ここまで這ってきた後、死に至ったのだろう。
もし、コイツが俺の前の合成魔法使いだったなら、不運としか言いようがない。というのも、合成は想像から創造するわけで、致命傷を負って思考がぼやけてしまえば当然のように失敗してしまうからだ。
「運とは残酷なものだ」
自戒を込めて呟く。もっとも、俺なら多少のケガをしていても合成してみせるがね。
したり顔をしながら周囲を観察していると、隣にも部屋があるのが見えた。俺は迷いなくそちらへ向かう。
扉を押し開けると、拍子抜けするほど整然とした空間が現れた。
「……綺麗だな」
棚には実験器具が並び、本が整然と収められている。床も比較的清潔だ。こちらも臭いはまだするが、あの地獄のような部屋と壁一枚で隔てられているとは思えない。
観察を続ける。すると正面の壁を見た瞬間に俺の視線は固定された。
明らかに異常な扉がある。いや、扉の形はしているが、どう見てもそれ以上のものだ。扉くらいの大きさの歪な構造物。上下には無数の牙のようなものが並び、閉じているにもかかわらず、今にも噛みついてきそうな圧迫感がある。
ドアというより、悪魔の口。
壁に埋め込まれているそれは、こちらを見ている気がした。
「趣味が悪い」
嫌いではないが。いやむしろ好きだが。
上がりそうになる口角を押さえながら周辺を見渡す。脇の机に本が一冊置かれていた。表紙は古く、だが手入れはされている。俺はそれを手に取り、パラパラとめくった。流し見していると、ひとつの絵が目に入る。その下に書かれていた文字は。
「……神具、“口寄せの門”」
絵の横の文を黙読する。説明によれば、この門は“魂を呼び出す装置”らしい。条件は単純。生前、誰にも望まれなかった魂、“嫌われ者”、疎まれ者、忘れ去られた存在。そういう魂ほど、この門はよく反応するという。
「なるほど。聖人は呼べないわけだ」
俺は口元を重力に逆らうように歪めた。誰からも愛された魂など、この門にとってはノイズでしかないのだろう。
ここで一つの疑問が浮かんだ。神具は求めるものの元へしか来ないはず。ならば契約者が死んだであろう今、神具は露と消えると思うのだが。
あの死体が契約者ではなかったか、他に隠されたルールがあるのか。もしくは——俺が契約者になったか。
試しに願ってみるのが早いな。
「おい口寄せの門。“聖人”の魂を呼び出してくれ」
冗談半分だ。ルール通りなら聖人は来ない。
門が軋む音を立てた。牙がわずかに開く。中から黒い霧のようなものが溢れ出し、やがて手のひらサイズのガラス瓶が吐き出された。
俺は警戒しながら拾い上げる。中には蒼くゆらめく炎のようなものが漂っていた。瓶にはラベルが貼ってあり、その文字を読んでみる。
「……殺人鬼の魂、か。ククク」
俺は笑った。門は正直だ。ブラックユーモアが効いている。聖人を呼べと言われて、これ以上適切な例はない。
「これは使えるかもな」
なぜ俺が契約者になったのかは分からない。もしかしたら他の生命体も使えるかも知れないし、後でキメラかゴーレムマンに使用させてみよう。
それより今は実験したい。
俺は部屋を見回して、床に転がっている芋虫の死骸を拾い上げた。先ほどの部屋から迷い込んだのだろう。すでに乾きかけている。
俺は魂と芋虫の死骸を重ねた。合成開始。聖人を爆殺したような白い光が視界に広がる。
結果は成功。
芋虫は、芋虫のままだ。だが、明らかに違う。動かないはずのそれが、わずかに身をよじった。空気に嫌な気配が混じる。
芋虫は半分ほど体を持ち上げて、明らかにこちらへ敵意を向けている。まるで“殺人鬼”のように。
「……ククク」
思わず笑いが漏れた。
「これは面白い」
まだ検証が必要だが、魂という概念をここまで雑に扱えるとは思わなかった。嫌われ者の魂しか呼べないのは癖があるものの、これがあればできることは無限に広がる。ゴーレムに新たな人格を与えたり、兵隊に恐怖を植え付けたり、あるいはもっとくだらない悪戯も。
「悪巧みが捗るな」
俺は、神への反逆を企てる堕天使のごとく陽気に笑った。
ふと、視界の端に一冊の本が映る。机の上に置かれているそれは、小綺麗な焦茶色の表紙。デザインを邪魔しない程度の花の模様があしらわれている。
「……日記?」
おそらく隣室の腐った死体の遺物だろう。あの部屋で死んだ人間がここで記していたもの。どんな呪詛が書かれているのか。門を使った実験過程か、それとも死の間際の後悔か。
俺の好奇心が最高潮に昂った。
ページをめくる。書かれていた文字は震えているが判読はできる。
「さて」
俺は深く息を吸った。布越しでも、あの臭いがまだする。だがそんなものより好奇心が勝っていた。
「キミは何を残したんだ?」
答えは碌でもないものに決まっている。だが、それでいい。碌でもないものほど研究者にとっては価値がある。
俺は禁書をめくる背信者のように黙々と読み進めた。




