第20話 金区・酒場2・ロレーヌ夫人
金区の高級酒場で飲んでいた俺とキメラと錬金魔導士ルエガの三人の前に新たな人物が現れて声をかけてきた。
そこにいたのは三十代くらいの淑女という概念を人間の形に押し固めた存在だった。姿勢は彫像、微笑みは仮面、視線は品格で編まれた刃。髪はミノタウロスと迷宮を合成したらできそうな編み込まれたブラウンヘアー。
「いい香りね」
キメラに向けての発言だ。優しい視線の中に値踏みするような色が混ざっている。
淑女は返事を待たずに話し続ける。
「癖毛がなくて透き通るような銀髪。そこからほのかに香る甘い匂い。優美さを引き立てていて素晴らしいですわ。香水は何を使っているんですの?」
言葉が宝石みたいに磨かれている。角がない。
「どなたかしら?」
キメラが砂糖水を飲んだくらい甘い声音で返答した。美しさでは淑女にも負けていない。服は原始人とパリコレモデルくらい差があるが。
「失礼しましたわ。わたくしは“ロレーヌ”。コボルド商会会長の妻ですわ。以後お見知り置きを」
名前が落ちた瞬間に高貴な空気が流れる。個人ではなく肩書きが立っている感覚。人間というより社会的役職が歩いている。
「どうも、ロレーヌ夫人」
横に座る爽やかの擬人化的存在ルエガが軽く頭を下げる。王水のように輝く髪が揺れて色男を加速させた。
「あら、ルエガ博士。来ていたのね」
「どこに研究材料が落ちてるか分かりませんからねぇ。酒の一滴すら惜しいもんですぜ」
酒を飲む言い訳だ。ロレーヌ夫人も理解しているようで薄く口角を上げる。
「物はいいようですわね。それで、そちらのお二人は?」
「シュタインとキメラ。俺様の親友さ」
紹介されると、人間は個体から属性に変換される。観察対象。鑑賞物。あるいは投資先。ロレーヌ夫人は俺達二人を一瞬だけ観察してアルカイックスマイルを浮かべる。俺に人妻属性があったらときめいていただろう。まだ無くて良かった。
夫人は再びキメラに優美な視線を向ける。
「話を戻させてもらいますわ。キメラさん、なんの香水を使ってらっしゃるの?」
「露店で買って、もうなくなってしまいました。だから詳しいことは分かりません。ごめんなさい」
さすがに体臭ですとは言わなかったか。キメラにも小学校高学年くらいの知能はありそうだな。
「あら、残念。もし、また見かけたらルエガ博士を通してでも教えていただけると嬉しいですわ。その時は譲っていただけると助かります。もちろん高値で買い取らせてもらいますわ」
こんなものも金になるのか。適当に作って売り捌くのもありだな。
頭の中で錬金術の思考が静かに動く。
「ロレーヌ様、お時間でございます」
背後にいた上品そうな付き人が囁く。
「そうだったわね。では失礼しますわ。神の導きがあれば、いずれ再会することもありましょう。それでは、ごきげんよう」
去っていく背中。香水の残り香だけが余韻の亡霊みたいに漂う。気品とは後ろ姿だけでも完結する演出だ。
「あんな気品に溢れる人でも酒場なんかに来るのね」
緊張を解いたキメラが銀髪を耳に掛ける。
「一応ここは高貴な人間しか入れない場所だからねぇ」
ルエガが身につけた金の装飾品を主張しながら言った。
「それにロレーヌ夫人は美食家だ。銀区も銅区も平気で顔出すぜ」
「いいわね。私も色んなとこの料理を食べ歩きたいわ」
「シュタインがいなけりゃ連れて行きたいが、俺様は親友の女には手を出さない性質だ。親友に連れて行ってもらいな」
「旦那様には早くお金持ちになって欲しいわね」
キメラが流し目で目配せしてくる。視線が艶を帯びる。期待という名の圧力。欲望という名の微笑。
「キミが稼げば全て解決するよ」
流し目が銀の弾丸のように鋭くなった。
ルエガが笑う。
「ロレーヌ夫人もそうだが、なんで美人は変人に惹かれちゃうのかねぇ」
ルエガが笑う。二度目。
「コボルド商会長も俺みたいなやつなのか?」
「見た目は疲れた犬みたいで可愛いが、ケチで偏屈なおっさんだよ。ロレーヌ夫人には尻に敷かれてるらしいけどな」
疲れた犬。尻に敷かれる商会長。面白い。
支配と依存の共存関係。愛と管理のハイブリッド。夫婦とは最も成功した合成生物かもしれない。
「興味深い話だった。感謝する。じゃあ今度こそ帰るとしよう」
「おいおい、どさくさに紛れて帰るなよ。キメラちゃんもまだ料理食べたいだろ?」
「食べる食べる!」
即答。コイツ……腹が減らないように改造すべきかもな。
それからルエガが引くほどキメラの腹が膨れた頃にようやく解散する運びになった。
ルエガと別れた後の酒場からの帰り道。夜空には、宝石強盗をダイヤごとショットガンで吹き飛ばしてできたような星が煌めいている。
俺とキメラは酔いと満腹と余韻が混ざり合い、世界が一段柔らかくなった気分で歩いていた。
青銅区の石畳は昼間は労働者の足音で満員電車だが、夜になると哲学者の額みたいに無口になる。
クックの家へ向かう道すがら、俺とキメラの影だけが街灯の下で二匹の奇妙な生き物のように伸び縮みしていた。
「キメラが美人で助かったよ」
唐突に言うと、キメラはパチンコ玉のように目を丸くして足を止めた。
「……いきなりどしたの」
その声には警戒心と好奇心が半々で混ざっている。
「カーバンクル狩りに参加するためのアイデアを思いついた」
「え、本当?」
満腹で機嫌のいいキメラは猫が暖炉の前で喉を鳴らすみたいな声を出した。
「ああ。狩りまで一週間しかない。ギリギリ間に合うかどうかだ。明日から忙しくなるぞ」
「私は何をしたらいいのかしら?」
期待という名の光を瞳に宿して聞いてくる。
「そうだな……まずは看板娘になってもらおうか」
「……はぁ?」
夜風が一瞬、冷たくなった気がした。
街灯の光がキメラを照らす。その表情は、銀紙に包んで捨てたガムみたいに歪んでいた。




