第陸拾話 落日の玉座〈六〉
陰陽国に突如として訪れた嵐は、人々の心を酷く掻き乱し、そして深い悲しみへと落とした。
過去に例を見ない大嵐に見舞われた聖地全域は洪水から土砂崩れなど数多の災害に頭を悩ませ、谷間に居を構える陰陽国全体は水没被害の対策に人手を割かれた。
そしてこの大嵐は不運にも、陰陽国の民から時間を奪い去り、刻々と迫る襲撃の足音を迎え討つ準備すら手が回らなくなってしまった。幸いにも宮中での話し合いの結果、領主らの進軍についての情報については箝口令が敷かれ、陰陽国の民草の耳に入ることはなかった。故に彼等は目の前の災害にしか意識がなく、予想された混乱は今のところ起きていない。
あとは宮中で迎撃の一手を練るだけだけ…だった。
吹き荒れる暴風雨が容赦なく叩きつける静寂の紫微宮は、荒れ狂う嵐の音を聞きながらその場に集った全ての者が口を閉ざし俯いたまま。普段の賑やかさなど当に失われ、自身の身の上話を語る者、相手の近況を探る者、政治的動きを噂する者、その一様が皆軽い口を閉ざして俯いたまま、視界の端に“二つの空の玉座”と“ぽっかりと空いた右大臣と中納言の席”を映して震え上がった。
この過去最大の大嵐の前触れのように、それは起こった。
青帝からの宣戦布告から間も無く、左大臣――冬牙の別宅に招かれた右大臣――界雷が、毒殺されたのだ。その事件を耳にした時、誰しもが招いた張本人を疑ったのは当然の事だった。だがしかし界雷の死体を発見したのと同時に、その犯人も自ら名乗り出た。それは、冬牙の側近とも呼べる青年――藤内だった。自首した藤内は犯行を計画、実行したのは自分一人だけであり、この計画に冬牙は一切の関与は無い、と主張を貫き通したが実際、それを本心から信じている者など誰一人としていなかった。
元より対立関係にあり特に冬牙から界雷に向いていた“嫉妬”や“対抗心”は誰から見ても明らかであり、それを気にする素振りすらなかった界雷に態度にも、恐らく腹を立てていたと思われた。そんな彼が今回とんでもない凶行に出た、と貴族たちの間では噂となり、彼等の猜疑の視線は冬牙一点に向けられた。
しかし周囲の視線などまったく意に介さず、依然として涼しい顔で左大臣の座に居続ける冬牙の面の皮は誰よりも厚く、仮面のように彼の本心の貌を覆い隠していた。
その中、他の公卿たちはそれぞれに様々な表情を浮かべていた。
まずは大納言の一人で烏兎の分家当主“陽春”
彼の顔色は最早青白いを通り越して土気色をしており、まだ見ぬ敵を思い浮かべては膝の上に乗せた拳を震わせ恐怖のあまり萎縮していた。自身の家族の運命を託した長女――陽炎は青林の説得に失敗した模様で、今や烏兎の次に命が危うい状況にある陽春の心中は察するに余りある。
その隣は同じく大納言の一人、今回の被害者である界雷の親友とも呼べる、“桔梗”
息子を青龍の手によって亡くし、親友を政敵の手によって亡くした彼の絶望は計り知れず、今は正気を失った顔で俯いたままである。長く手入れされていた黒髪は辛うじて束ねられているものの明らかに所々ボロボロで、少し痩せこけた顔からは彼の食欲の無さが見てとれた。彼もまた、この場において頼りになる人物ではないだろうと、貴族達は一様に肩を落とした。
そんな二人の向かいに座るのは、界雷に推薦され中納言の地位を手に入れたにも関わらず、その日も浅い内から既に己が地位の危うさに絶望する男“華岳”
界雷が亡くなる前は何故か余裕綽々といった様子だった彼は一変して血の気のない真っ青な顔で呆然とするばかり。最早頼りにならない彼の存在はほぼ空気と化し、気遣って話しかける者さえいなかった。
そして参議の席には今、問題のあり過ぎる男が一人だけ座っている。あろう事かこの場に酒を一升瓶持ち込み、今にも火を吹きそうな赤ら顔で泥酔しきっている釣鐘だ。既に酷い酩酊状態の身体は最早座っていることすら儘ならず、抱えた一升瓶に支えられなんとか体勢を保っている有様。それに苦言を呈したのは、勿論唯一の血縁者である同母弟の桔梗だった。
「貴様は…っこんな時になにを考えている!」
「……ぁ? ぁあなんだ、桔梗かぁ」
「こうしている間にも領主らの軍は進軍の準備を進めている。何か対策を講じなければ我々の命は勿論、烏兎の御二人も、家族、友人、そして最悪の場合無実の民にも危険が及ぶのだぞ!?」
「…あぁ、はは。えぇ、えぇそれはもちろんわかっているさ。だが、今更それがどうした?」
「…なんだと」
強烈な酒気で未だ目の前の桔梗と視線の合わない釣鐘は中身の大分減った酒瓶を抱きしめながら、諦観した様子で自身の現実に対して語った。
「幼い兎君、不安定な宮中の権力図、不明確な噂に振り回される烏師、その全てを一つの支柱が支えていた。それが界雷殿だった」
「でもあの人はもういない。もう少し時間があれば、彼と共に支柱になってくれる者、或いはその後継がいたかもしれないが、叶わないことを言っても詮ないこと」
「支柱を失ったこの国が辿る未来はただ一つ、『終わり』だ。ならば、この命尽きるその瞬間まで、俺は“俺という人間”を貫き通すことにする」
そう言って震える手で盃に酒を並々注ぐと、一気に煽った。普段あれ程軽薄で愚かな姿ばかり見せていた同母兄の潔い生き様に怒りで真っ赤になっていた桔梗の熱は冷め、呆然とするしかなかった。
その暫しの沈黙を破ったのは、奥から現れた蔵人頭にして界雷の息子――巴の登場だった。当事者の一人である巴もまた些か憔悴した顔で現れたが、彼の登場は同時に烏兎の存在を周囲に思い出させた。
泥酔している釣鐘以外、全員身なりと姿勢を正したのを確認した巴の号令で玉座裏の重い扉が開き現れた人影が自らの玉座へと向かう。
だがそこで冬牙は違和感を覚えた。二つ並ぶ玉座に対して裏の扉も同じく二つ、しかし開いた音は片方だけ。そして登壇して玉座に向かう足音も同じく一つであること。その違和感を晴らす為に思わず顔を上げた冬牙は目を見張る。
玉座に座り冬牙たちを無言で見下ろしていたのは、その艶やかな髪と同じ黒を基調とした礼服を身に纏い、共に産まれた片割れの瞳と酷似した真っ赤な石の耳飾りを揺らす――それは、兎君“朔夜” その人のみだった。
冬牙の計画において肝心の赫夜がいないことに内心焦り出していると、一人顔を上げている姿を朔夜は厳しい顔で睨んだ。
「…冬牙、この僕を前に随分と頭が高いぞ」
「っは、失礼致しました」
「まぁよい。これから重要な話を聞かせるがゆえ、皆も面をあげよ」
朔夜の許しを得て冬牙以外も頭を上げると、皆一様に朔夜一人と空の玉座を凝視した。その場にいるほぼ全員の視線が空っぽの椅子に注視していることを察した朔夜は、まずはこの状況になった経緯を説明した。
「まず、皆のものよく集まってくれた。この場に兎君一人の出席であることは、ぼくが代わりに詫びよう。我が兄、赫夜は原因不明の高熱の為今回は欠席であることは理解してほしい。故に今後の我が国の動向については、僕一人が責任を負わせていただく」
赫夜がこの場にいない説明を丁重に説明し、年齢にそぐわぬ落ち着きを払った朔夜の様子に誰もが感嘆する一方、桔梗は決して聞き逃さない『言葉』に声をあげた。
「お、お待ちください! い、いま、なんと…?」
「“なに”とは、どれのことだ?」
「とぼけないでください! なぜ赫夜殿下のことを“兄”と呼ばれるのですか!?」
桔梗が指摘したことでその場にいた他の者たちもその違和感に気づき、ハッとした顔で朔夜の顔を見上げた。全員の注目が集まる中、向けられる視線は“疑念”や“困惑”など負の感情ばかりが滲んでいたが、朔夜はそれらをまったく気にする様子はなく、寧ろ今まで通りの平静さでこの場にいる全員にまずは詫びの一言を告げた。
「そうだな、その件についてまずはそなた等に詫びねばならぬ。どうやら僕の与り知らぬところで既に“噂”が流れていたようだが、その内容について僕はすべてが事実であるとここに宣言する」
その場の空気が凍り付いた。誰もが息をすることを忘れたように静寂が覆う中で、朔夜は続ける。
「この国の為、烏兎の存続の為、理由は様々だが結局は其方たちを騙していたことに変わりはない。そしてそんな僕たちを守る為に尽力してくれた界雷のことも、僕は感謝してもしきれない。だからこそ、こんな結果になってしまって非常に残念だ」
「頼みの綱の界雷のいない今、この国を辛うじて守っているのは十五夜おばあ様の結界のみ。しかしこれもいつまで持つかわからない、力を補助できる赫夜も高熱で動けない。もし結界が壊れたそのあとは―――
―――僕の首一つで、この争いを終わらせる」
まだ十五歳の若い君主の命を懸けた覚悟に桔梗たち臣下は勿論、一番傍に控えていた巴がギョッとして振り返る。巴が何か言いかけたが、この場で口にするには憚られる内容だったのか寸でのところで飲み込んだ。
しん、と静まり返る空間で自身の覚悟を言い切った朔夜は漸く一息つくと、桔梗らに待機を命ずると御座から立ち上がったそれを制止したのは冬牙は、朔夜に冷たい視線を向けられる。
「…故に其方らには暫しの待機を命ずる。ただ、万が一の為家族と陰陽国の民らをこの宮中に集めよ。その後のことは追って沙汰する」
「っ―――お待ちください殿下!!」
「……まだ何か申したいことがあるか、冬牙」
「はい。何故そこまで悲観的なのか、本当にもう手立てはないのか、私はその采配に疑問がございます」
自身の主張を強める為に敢えて立ち上がった冬牙は、周囲がその無礼な行為に対して良い顔をしないことを知っていながらも決して膝をつくことなく朔夜の計画に対して意を唱えた。
その勇気ある行動を賞賛するどころか益々眉間に皺を寄せ嫌悪を表情を露わにする朔夜は、底冷えした声で冬牙に“ある指摘”をする。それは『界雷の死』についてだった。
「…時に冬牙、亡くなった界雷のことだがお前に忠実だった藤内“ひとり”の仕業だと聞いている」
「…はい誠に遺憾ながら、この私を思うあまりの凶行だったと本人から聞き出しました。まったく恥ずかしいばかりです」
「で、その藤内はどうした?」
「…今朝、屋敷の自室にて自害致しました。報告が遅れまして申し訳ありません」
紫微宮内の空気がどよめいた。藤内死亡の報せは誰一人として聞かされておらず、冬牙が今報告するまで完全に秘匿されていた。故意の隠し事に苛立ったのか、それとも界雷の死の原因の一つであるというのに飄々としている冬牙に怒りを抱いたのか、朔夜の眉間の皺は更に深くなった。表面上は己の忠臣の招いた惨事を詫びている冬牙だが、心の底ではこのまま自分主導の計画を話す切り口を探していた。しかしその野望はあっさりと切り捨てられた。
「冬牙、言っておくが僕たちはお前の報告をすべて鵜呑みにしているわけではない。赫夜を、巴を、揺籃を悲しませたことを、僕は絶対に許さない」
「っ…」
全てを見透かすように光る碧眼は僅かに冷気のようなものを放ち、冬牙の身体は凍りついたように硬直した。普段よく回る饒舌でさえ、今は舌先ですら動かない。齢十五にしてこの威厳はさすが兎君と感嘆する他なかった。もうこれ以上口出しできないことを悟った冬牙の様子を一瞥すると、朔夜はその場から颯爽と立ち去った。
その後を追った巴は覚悟の決まった横顔を心配そうに見つめながら、早足の朔夜の横を並走した。
「朔夜様、先程のお話は–––」
「–––巴、揺籃の様子は?」
巴は先程の話について問いただすつもりで声を上げるが、先手を読んでいた朔夜に話を遮られる。更にその話題は巴が今もっとも無視できない母“揺籃”の話題だった。
「…母は、随分気落ちしておりまして。今は旋花殿で寝込んでおります」
「そうか、よく養生してくれと伝えといてくれ。巴も“東天紅門”の開放を進めてくれ。僕は…、最期の仕事をするよ」
「……最期?」
巴のその問いかけに、朔夜が応えることはなかった。
❖ ❖
双星暦千七十年(2059年)水張月(六月)
月は流れは止まらない。半月後には青龍軍、朱雀軍、玄武軍、白虎軍ともに総勢約三十万の兵が陰陽国に向けて進軍を開始した。
玄武軍は総大将に領主–––玄冬を据え、娘婿–––紅鏡に自身の半分の兵を任せて出兵。
白虎軍は総大将に領主–––白楽、補佐役に大老–––伯都を任命して出兵。
朱雀軍は総大将に領主–––朱鷺を据え、補佐として波山、鳳を任命して出兵。
そして青龍軍は総大将に領主–––青林を据え、補佐役として老中の右京と左京の二人が務め、青林の側には法術師の弓月が控えていた。
陰陽国を囲む四つの山々を超えたところで突然降り始めた土砂降りの雨は進軍の足を止め、それぞれの軍は雨風を凌げる大木の下や洞窟の中に身を潜めるしかなかった。思わぬ立ち往生に深く溜め息をつく青林は、連絡に走った兵士の帰りを大人しく待っていた。その良い暇つぶしに運良く現れたのは、相変わらず顔を見せようとしない黒装束の弓月だった。
「…お前か。ここまでは順調だったのだがな、霧が晴れているというお前の読みは当たっていたな」
「当然です。ここまでの雨です。流石の十五夜も、同時並行して霧の拡散までは出来なかったのでしょうね」
「なに? それはつまり、この雨すらも烏師の仕業だというのか」
さも当然のように放った弓月の発言に目を剥く青林に覆面の下でほくそ笑むと、弓月は続けた。
「恐らくは都全体にも結界が張られているでしょうけど、保険として我々の足止めをしようという魂胆なんでしょう」
「ならこの雨は当分止まぬな」
「その点に関してはご心配には及びません。こちらで少々お待ちくださいませ」
一礼して唐傘を広げた弓月は土砂降りの中を進み始めた。今から壮大な事を行おうとしているとはとても思えない余裕の背中に、青林は呼び止めて感謝を伝えた。
「–––弓月! お前には本当に助けられてばかりだ。感謝する!」
「……そうですか、私には勿体無いお言葉ですね」
青林の他意の無い真っ直ぐな感謝の言葉にどう返していいかわからず、少し間を置いてから当たり障りのない謙遜を返すと、すぐに背中を向けて歩き去った。
大粒の雨は森の中で更に視界を遮り、その中へ弓月は煙のように消えていった。
何十本目の樹木を通り過ぎた頃、ぬかるみを踏み締めた音にハッとして思わず振り返ると、もう青林の姿はどこにもなかった。
弓月は独り、先程の言葉を頭の中で反芻する。『助かった』『ありがとう』など、弓月の今までの人生には無関係な言葉であり、誰かに向けたことはあっても、誰かに向けられたことはなかった。彼が専ら向けられた言葉は決まって、『お前さえいなければよかった』『邪魔』『生まれてきたのが間違い』などの、負の感情に塗れた言葉ばかり。その中でも優しい言葉で弓月の心を守ってくれたのは、真雪のような美しい女性と、大きな手で頭を撫でてくれる男性、厳しく礼儀作法を教えてくれた小言の多い女性の三人だけ。その三人ももうこの世にはいない、今弓月を褒めてくれる人はいない。
どこまでも続く森林の向こうにはその三人がまだ笑い合っていた頃と同じ景色が広がっていることを思い浮かべながら、弓月は差していた唐傘を閉じた。雨粒に濡れるのも気にせず被っていた覆面を外すと、周囲の人間には決して見せない顔を晒した。一点の曇りもない真っ白な髪から覗く真っ赤な瞳の年齢不詳な美青年は、指先に乗った雨粒にふっと息を吹きかけると、不自然に指先から離れた雫は空中でぴたりと止まり周りの雨粒を吸収して徐々に巨大化していく。
集まった雫が弓月の身体と同じくらいの大きさになった頃に雨粒の収束は止まった。準備は整った弓月は深呼吸をひとつして目を閉じたまま、大きくなった雫の中に足を踏み入れた。水の中に入った身体は濡れた感覚はなく、雨音ひとつしない静寂に包まれた。そこがもう別世界であることを肌で感じた弓月はゆっくりと瞼を開き、目の前に広がる光景は彼に懐古の念を抱かせた。
水の中に踏み入れたはずの弓月の眼前に広がる光景は広大で、どこまでも続く大きな川と砂利道が無限に広がっていた。これが一体どこなのか、どうやって出来たのか、弓月は何一つ知らないがここに来れば“とある人物”に会えることだけは知っていた。
小粒の砂利が敷き詰められた歩きづらい川沿いの道を暫く歩いていくと、霧がかった視界の向こうにぼんやりとした人影が浮かび上がる。一応の警戒を抱きつつ一歩ずつ近づく弓月の存在には気付かず、すぐ横に辿り着いたとてその影はぴくりとも動こうとしなかった。静寂満ちる川辺に一人膝をついて座り川向こうをただ見つめるその人影は、真っ白な長い髪と少しくすんだ紅の瞳をした男だった。着ているものはまるで死装束のようで裾から覗く手足は明らかに痩せ細っていた。少しの生気も感じられないその姿に弓月は顔を顰めながらも、怪訝に名前を問うた。
「…もしや、あなたが“龍神”ですか?」
弓月の問いに対し漸くその存在を認知した男はゆっくりと瞬きをすると、振り返ることなく「あぁ」と短く返答した。予想通りの答えで満足そうに微笑んだ弓月はそのまま男に向かって左手のひらを差し出した。それが何を示しているか理解できなかった男は視線だけをこちらに寄越した。
「…今、我にあげられるものなぞ何ひとつないが?」
「いえ、おひとつ“お借りしたいもの”があります」
「…」
「貴方の持つ、龍神として認知されている力を使う権利を、一時的にお貸しいただきたいのです」
弓月の差し出した手の意図を理解した男は驚きのあまりついに完全に振り向き、弓月の顔を見上げた。そこで漸くその姿が自分とよく似ていることに気づく。同じく白い髪、自分より鮮やかな色合いの赤眼、その顔立ちは男に懐かしい愛情を彷彿とさせた。しかし目の前にいる弓月は“男性”であり、男が探し求めている人では決してない。弓月の真意を測りかねないものの、男は素直に差し出された手に己の痩せ細った指先が触れた。
すると触れ合った指先の間から少しずつではあるが小さな水の玉のようなものが生成されていき、それは雫の形になると凝固して結晶となった。それが自分の手に入ったことに弓月は満足げに薄く微笑んだ。
「感謝いたします、龍神。ではこちお借りいたします」
「…好きにせよ」
「貴方は、この後どうされるおつもりですか?」
「何も変わらぬ。今までと同じようにここで待つのみ」
「誰を…?」
「…はて、誰だったかな」
弓月の問いに誤魔化しているのか、それとも本当に忘れてしまっているのか、これ以上話す気は男にはなかった。既に目的を達成した弓月はこれ以上追及することをやめたが、ふとある疑問が脳裏を過ぎる。
「…そういえば、ここの空間は随分と安定されてますね。私の予想では、今の“双子”が生まれた時点で『結界の盟約』は崩れたと思っていたのですが」
「……さてなんのことだか。ここに来るまでのことはほとんど憶えていない我にはなんとも言えん。––––が、」
「…?」
男は何も知らないと宣いながらも、自分の青白い手を見つめながらずっと感じていた“違和感”を告げた。
「我と繋がりのある者がここから遠くに感じるということだ。今まではすぐ近くに感じていたというのに…、なんとも不思議だ」
「…は」
男の言葉の意味するところを弓月は始め理解できなかった。弓月の知る限り、男の言うように『彼と繋がっている者』は常に陰陽国に鎮座し、生涯一度たりともその地を離れたりしない筈。それ故に“この場所”から同じように一歩たりとも動くことの叶わないこの男との間に距離を感じることなど、あり得ない事だった。男が感じた“違和感”の正体を突き止める為、弓月が追及しようとしたその時–––、時間切れとなった。
突然弓月の目の前の景色に靄がかかり始め、歪んだ景色と共に男の姿も消えていった。もうこれ以上この場所に留まるのは不可能だと観念した弓月は大きく溜め息をつきながら、周りの景色が元の雨の森林の中に戻るまで大人しく待った。
暫くして雨粒が弓月の鼻先に落ちた感触に、無事現実に戻ってきたことを認識した。弓月が立ち尽くしている場所は相変わらず大雨に覆われ、ぬかるんだ地面に少しだけ足が埋まっていた。側から見ればただ立ち尽くしていただけの弓月だったが、唯一あの場所に行く前と違うのは、その手にしっかりと握られた“雫の形の結晶”の存在。そして弓月の中には、男の話がずっと居残りそこから“ある可能性”に辿り着いた。
「…今の烏兎の他に、正式な双子が既にどこかで生まれている?」
「…いや、そんな筈。だとしたら、“烏”はそれをどうして…」
逡巡する思考の中、答えなど導き出せるはずもないという結論に至った弓月は、ひとまずこの問題に関して一時的に忘れることにした。
態々出向いて手に入れたその結晶を弓月はさっそく使用することにした。手に乗せた結晶を頭上高く掲げると、それは勝手に弓月の手を離れて浮かび上がった。空高く上った結晶は周囲の雨粒を収集し始め、降り注いでいた雨は時が巻き戻っているかのように空へ戻っていく光景は、洞窟で待機していた青林たちの視線を釘付けにした。
やがて全ての雨粒が結晶の周りに集まり、巨大な水の塊になったそれはゆっくりと空を浮遊したそれが向かう先は、陰陽国。水塊の向かう先を見送った弓月は覆面を被り直すと、青林のいる洞窟へと戻るのだった。
❖ ❖
弓月が向かわせた水塊は陰陽国の上空に到着すると、水塊の形が歪み始め細かい粒に戻ったそれは大雨になって庚辰の都に降り注いだ。しかしその雨粒は普通のものとは異なり、術師以外には見えない『結界』に阻まれ民の頭上に到達することはなかった。が、勢いよく当たる雨粒は徐々に『結界』を侵食していき、やがて溶けた結界の隙間から雨粒が突き破った。
決して破れることのない筈だった結界を張っていた十五夜は、それが溶解されたことを后土殿にいながら感じ取ることができた。
「…–––っこれは!」
「如何いたしましたか?」
艶の少なくなった白髪を神官の女性――薫に梳いてもらっていた十五夜が突然明後日の方向に頭を振ったことに手を引いた薫は驚いて尋ねた。しかしその問いに答える余裕は、今の十五夜にはなかった。梳かし終わっていない髪のまま廂に近づくと、震える手で口元を押さえながら信じられないものでも見るような目で空の彼方を凝視した。その視線の向こうにあるのは、ここからでは姿形すら見えない陰陽国の都“庚辰”であった。
唇を震わせ言葉を紡げずにいる十五夜の傍らに歩み寄った薫が空を見上げるも、普通の眼ではその異変を目視することは出来ず、薫は微かに瞳の色を赤に染めると、十五夜の見ていた光景を共有することに成功した。
それは、上空から落ちてくる雨粒が陰陽国と社殿の上を覆っていた“結界”を突き破りながら降り注いでいる光景。この“結界”を作り出したのは、勿論横にいる十五夜に他ならず、何故それが崩壊しているのか、当の本人にはまったく理解できなかった。しかし、薫はこの異常事態に対し『ある人物』の顔が頭を過り、同時にこれを『もう一人の人物』に早急に伝えなくては、と思いその場を離れた。
足早に向かった先は同じく神官の“鈴虫”のいる部屋。乱暴に開かれた襖の音に事務作業を中断させられた鈴虫は手にした細筆を折らない程度に軋ませながら、礼儀知らずな薫に対し怒りを湧き上がらせた。
「鈴虫――!!」
「………っはぁ、薫。人の部屋に入るときは一声かけろと、何度も何度も何度も何度も、な・ん・ど・も! 言ってきた筈だが? 一体いつなったらその足りない脳みそで学びを得てくれるんだ?!」
「あーもー! そんな小言はまた今度きくから、今は外を見てよ!」
薫は怒りを露わにする鈴虫を気にしている余裕なく、勢いよく開かれた襖の外を強く指差す。尋常ではない薫の様子に渋々外を覗き込むと、その空の向こうに広がる景色に目を疑った。
「な、なんだあれ…っ、結界が…、溶けてる?!」
「そうなんだよ! こんなこと、初めてだよ」
目の前で起こる現象にまったく理解が追いつかない薫があたふたする傍ら、法術の心得のある鈴虫の目にはその現象の本質が見えていた。
今この時代、烏師の結界を壊せるのは同じ烏師でなければ有り得ない。そして鈴虫はそれに当て嵌まる人物を、一人しか知らない。その人物を思い浮かべると同時に、ある“不安要素”が鈴虫の脳内を過ぎる。怪しく光る空をあんぐりと見上げる薫をちらりと盗み見れば、彼女の首の後ろから密かに伸びる“絲”が光る。彼女には見えないその“絲”が今の彼女の命運を握っていることを鈴虫は知っていた。知っていながら何も出来ない自分の無力さに歯痒さを感じながら、一つだけ彼女に忠告した。
「……薫お前、最近体調に変化は?」
「な、なによ急に。別になんもないよ」
「そうか。だが気をつけろよ、ぼくたちの預かり知らないところで“何かが起きてるぞ」
「言われなくてもわかってる。たとえ何があっても、烏兎だけは守るから心配するなって」
「…わかってるなら、いい」
突然薫の体調を聞いていたと思えば、最後は素っ気なく返して再び筆を走らせ始めた鈴虫の様子に違和感を抱きながらも、今は深く考えている暇のない薫は置いてきた十五夜のもとへ足早に戻って行った。
その薫の背中を見送りながら、いつの間にか彼女の首に巻き付くように伸びた“絲”にサッと血の気が引くのを感じながら、自分を落ち着かせる為に夢中で紙に向かって筆を走らせた。普段綺麗に並べられている鈴虫の文字はあり得ないほど乱れ、噴き出して止まらない脂汗が紙の上に落ちて乱れた文字を滲ませた。最後の行を書き終えると、持っていた筆を文机に叩きつけた。普段道具を大切に扱う鈴虫の有り得ない行動に自身で困惑しつつも、汗を拭いながら立ち上がり手にしたくくしゃくしゃの紙をいつの間にか窓辺に留まっていた白い羽毛をした鴉の足に付けられた筒の中に詰めた。役目を果たす為飛び立とうとする鴉に、鈴虫は一つ伝言を託した。
「…空晶、伝言だ。“その時がきたら薫の始末はぼくが着ける”、と。須玉に伝えといてくれ」
苦悶の表情で“伝言”を伝えてる鈴虫の顔をしっかりとその瞳を焼き付けた鴉――空晶は「承知」の意味を込めてカァ、とひと鳴きすると窓辺から飛び立った。
その姿が霞んで見えなくなるまで見送る鈴虫は、伝言には含めなかった最後の一文を密かに呟いた。
「…たとえぼくの命と引き換えたとしても、白い烏と黒い烏の秘密は守ってみせる」
本日の後書き 『龍神』
初代烏師“金烏”が聖地の湖の底に封印した邪神。止まぬ雨を降らし人々を苦しめた元凶。今は現世と幽世の境界で一人、“誰か”を待っている。弓月が出会った龍神は白髪にくすんだ紅色の瞳をした男だったが、その正体は――――、
以下の記録は消去済みにて。 報告者『須玉』




