第伍拾玖話 落日の玉座〈五〉
時は遡り、
青林による国司全滅の三日前のこと。
遂に母が身罷った。
その連絡を受けて大老、涼風は急ぎ所領へと舞い戻った。城内の空気が不安定な中、留守にするのは少し気がかりだったが、「自身の母親の見送りくらいはして来い」という青林の一言で決心がつき、涼風は後のことを老中たちに任せて風真の所領である町へと帰還した。
代々大老を務め、その当主は『風真』の名を受け継ぐ由緒正しい涼風の実家は都に大きな屋敷が存在するが、その風真が代々所有する所領にはもう一つ『陣屋』と呼ばれる建物が存在する。風真の所領を管理する役所の意味合いも持つこの屋敷に両親が揃って移ったのは、涼風に当主の座を譲ってすぐのことだった。
涼風の母の葬儀は滞りなく行われ、土葬を済ませたのちに暫くは陣屋の屋敷にて喪に服すことになる。木棺に横たえられた母の顔はほんの数ヶ月前に見た時からより痩せこけ、その病魔がどれだけ身体を蝕んでいたのかが伺えた。結局、ここまで耐えてくれた母に最期、“願い”を叶えてやることはできなかった。涼風の母の願い、それは“養子に出した次男に再会すること”であった。行方の知れない弟の所在を父に尋ねても首を横に振るばかりで、涼風一人で情報収集も行ったが巧妙に消された痕跡から顔も知らない弟を捜すのは困難であった。そうこうしているうちに、母はこの世から去ってしまった。
心残りを抱えたまま亡くなった母への哀れみと申し訳なさ、そしてそれを決して叶えてやらなかった父への怒り。それらの感情を抱え涼風は父の寝所を訪れた。
隠居した当主の正妻が亡くなったことで役人たちは喪に服す為一度自宅へと帰り、僅かな使用人たちと涼風の親子が残っただけの屋敷の中は、いつもとは打って変わり静寂に包まれていた。
年が明けようとも、少し通年の中では肌寒い時期の屋敷はひんやりと冷たい空気が立ち込めており、いつもより足袋の中の足先が冷えた。そんな僅かな冷感に足先を擦り合わせながら座っていると、先程まで眠っていた父――春風がいつの間にか目を覚ましていた。
「…まだおったのか。長居は無用、早く城へ帰れ」
「その心配は無用です。青林様からも許可は頂きましたし、何よりきちんと喪が明けてから帰るよう仰せつかっておりますので」
「…」
この父の事だからきっと用が終われば早く帰れと言われるのを見越し、涼風は既に手を打っていた。主君自らの命令とあれば、流石の春風も無碍に扱うことは出来ず、用意周到な息子に深々とため息をついて諦めた。
「…だが、ここにいたとてすることなぞない。妻もいなくなった今、まだ儂に聞くことがあるのか?」
「その事なのですが一つ、父上に助言を賜りたいのです」
てっきり嫌味の一つでも飛んでくるのかと予想した春風は、息子の殊勝な態度に呆然とすると、その深刻そうな顔から事の重大さを読み取った。
「何かあったか?」
「はい。実は年が明ける前、母上に最期に面会しました後、城で奇妙な事が起きました。そこで三人、人死にが…」
「城内で人死にだと?! 兵士は、お前は一体何をしておった!」
城主の住まう城内での人死にについて、激しく追及する春風が思わず布団から飛び起きそうになるのをやんわりと止めつつ、涼風は続けた。
「いえ。原因は城外からの侵入者ではなく、城内の“あるモノ”が関係しているようでした」
「“城内”だと?」
「はい。父上は天守の地下で守られている“柱”については勿論ご存じですよね?」
「無論だ。初代烏師様から大切に預けられたモノだからな」
「…その“柱”の封印が、恐らく人を狂わせ戦わせた挙句両者とも死亡させ、更には……」
「…どうした?」
「……恐らく、人を喰いました」
恐らくこれが正しい表現であると確信した涼風は続けて事の顛末を驚愕する父に語った。
天守の地下の“柱”の側で腕だけを残して行方知れずとなった新参者の“左近”の事。
天守の守りを任されていた筈の警備二人が無惨な姿で発見された事。
孟章領の片田舎では死体の起き上がりが起きている事。
そして、弓月から聞かされた“鬼”という言葉。
“鬼”という聞き慣れない単語。それに春風は異常な反応を示した。病態の身体に鞭を打ち、飛び上がるように起き上がって涼風に掴み掛かった。その顔は寝込んでいる時よりも青ざめており、明らかに涼風の知らない“何か”に怯えていた。
「おに? 鬼だと? そんな筈はない! あれは…、そうだあれは、もう烏師様にしか…」
「烏師? っやはりこの件には烏師様が関わっておられるのですか?!」
「い、いや、それはわからぬが…。しかし何故“柱”は、涼風ではなく別の者を…」
つい先程まで“鬼”に対して過敏になっていたと思えば、春風は独り言のように今度は犠牲者の左近についてぶつぶつと疑問を零す。今回腕だけを残した左近はこの年に任命されたばかりの新たな“左近”であり、その存在を隠居の身である春風は勿論知らない。その為涼風は今回亡くなった左近について説明を語った。
「左近は先程申し上げた通り、今年着任したばかりの新参者です。本名は“三雲”といいまして、今の右近の弟です」
「……弟」
「はい。なので左近の腕が見つかった時の取り乱し様は酷く、今でも塞ぎ込んでおります…、 父上?」
「あ、ぁあ、あああぁぁ―――!!」
突然の父の慟哭はしんと静まり返っていた邸内を引き裂くように響き渡った。
物心ついた時から冷静沈着、何事にも動じず顔色一つ変えない、そんな父親の初めて見る慟哭する姿に涼風が呆気にとられたがすぐに正気を取り戻した。どこか身体に異常をきたしたのかと心配になり慌てて攻め寄った。
「父上!? なにが、どうなされたのですか!」
「いかん、いかんのじゃ!! “柱”が、“柱”の均衡がっ!!」
「はしらの…均衡?」
一体何を喚いているのかわからず戸惑う涼風の肩をできうる限りの力で掴むと、春風は急いで城へ戻るよう促した。
「は、はやく、殿のもとへ…、このままではっ。私がすべて悪いのだ、あの子を惜しんだがばかりにっ」
「父上! 一体何の話をされておられるのですか!?」
「………っ“柱”に食われたのは、我ら“風真の子”、つまりお前の実の弟だ!!」
そう聞かされた涼風の衝撃は計り知れないものだった。
あれだけ行方を探し求めていた実弟があろう事からすぐ近くにいた事への喜び。
もっと早く気づいていれば今際の際に母と会わせることもできたのではないか、という後悔。
その弟すらもこの世を去ってしまったという悲しみ。
そして、“風真”による封印への干渉、その危機感。
あらゆる感情が濁流の如く押し寄せ二の句も告げられないままの涼風に、春風は強く命じた。「早く城へ帰れ」と。
「急ぎ城へ戻れ! この異変は烏師が原因ではない。我々である。その事はお伝えできんが、幸いにもまだお前がいる。“柱”もなんとかなるやもしれん!」
「は、はいっ」
そこから城へ帰るまでは人生で一番の最速だった。かなりの距離だったが大切な愛馬を乗り潰してしまったが、今はそれどころではなかった。
青龍城の城門は焦燥の色を浮かべた涼風の顔を見るや何も言わずに開き、疲れ切った愛馬はその場にいた適当な者に押し付けた。今は何者にも構っている暇はない。一刻も早く青林のもとに―――、
「―――すずかぜ?」
周囲の視線など一切気に留めず進んでいた涼風を唯一引き留めたのは、青林の妻――陽炎だった。か細い声に振り返った涼風は、彼女の姿を見て絶句した。
普段どれだけ義母に嫌味を言われようと、どれだけ城内で邪険に扱われようとも、その気丈な姿だけは決して乱さなかったあの陽炎が、今は見るも痛々しい程やつれた様子で縋るように涼風を見つめていた。少し見ない間にまた体重を落としたようで、遂に頬もこけ始めている。手入れの雑な金色の髪を振り乱し、陽炎は涼風のもとへ駆け寄り腕を掴んだ。
「奥方様! 一体如何したのですか?!」
「……との、殿が…っ」
「青林様? 青林様が一体…」
「涼風今すぐあの人を止めてください!!」
尋常ではない陽炎の様子に動揺が隠せないでいる涼風はまず彼女を落ち着かせて詳細を聞かせてもらおうと声をかけようとした、それを遮ったのは背後から響いた酷く冷たい声。
「何をしている、二人共」
今までに一度たりとも聞いたことのない静かな怒りを孕んだ声色に恐怖が背筋を凍らせた。今の状況を何か変な方向に勘違いしているのではないか、という懸念が涼風を凄い勢いで振り向かせ、思わず早口でこの状態に関して弁明を語った。目の前の無表情な青林に対して。
「っち、ちがう。違うぞ青林! これには訳が――っ」
「何が?」
「っだから!!」
「青林様!! どうか、どうかお考え直しください!! どうして…っ、なにゆえわたくしの故郷を攻め落とそうなどと仰るのでしょうか?!」
必死に弁明する涼風の腕から離れた陽炎は押し除けるように横切ると、次は青林の胸に飛びつき泣き叫んだ。その光景に涼風が一番驚いたのは、狼狽して泣き喚く陽炎の姿ではなく、その“言葉の内容”だった。耳を疑いたくなる内容に、涼風は震える声で聞き返した。
「…っど、どう、いうことです? 奥方様の故郷を…? つまり、それは…っ」
「言葉の通りだ。二月後、他の領主軍と共に陰陽国へと進軍を開始する。狙いは陰陽国、我等が“元”主君――朔夜と赫夜の両名だ」
「は…」
「涼風。お前も準備を整えておけ、私と共に軍の指揮をとってもらわねばならないからな」
青林の口から告げられた信じられない言葉の真偽は、彼の静かに燃える青い瞳が物語っていた。
そして、涼風は告げる。
❖ ❖
涼風が青龍城に帰還する数刻前。
陰陽国に単身乗り込み所謂『宣戦布告』を実行してきた青林はその事柄が病床の父の耳に届く前に、全ての始まりである天守の地下『柱』のもとへと足を運んでいた。守りの兵たちの横を通り抜け、地下へと続く石の階段を降りていけばそこは凄惨な事件の残り香をそのままにした『柱』の中心が佇んでいた。固く閉じた足元の『扉』には中へと引き摺った赤黒い跡はそこで死んだ者の無念を語る。壁に染み込んだように今でも聞こえてくる右近の悲痛な叫び声に胸を痛めながらその血痕を見下ろしていると、いつの間にか階段をゆっくり降りて来る足音が近づいて来ていたことに気づいた。重さを感じない軽い足音は女のように小柄な体躯をした覆面の男――弓月であることは振り返らずともわかった。
「どうした。何か用か?」
「わかっておいででしょう。お父上が御呼びです」
随分とご立腹な様子で、と弓月は肩を落としながら付け足した。父の忠告と青龍の意志を破り、烏兎に敵意を向けた時点でこうなることは目に見えていた。しかし青林にも譲れないものはあり、父を納得させるという難解な課題を前に決心をつける為先にここへ足を運んだ。
そして遂に、その父からお呼びがかかった。もう後戻りはできない。
「そうか、今行く」
「…出陣の日取りはもう決められたのですか?」
「あぁ。兵の準備もあるからな、出陣は燕去月(八月)を予定している。その間に予定されていた即位式があるが、領主ら揃って欠席だろうな」
「“即位式”ですか…」
「何か気になるのか?」
涼風から聞いた日程に何か物言いたげな弓月は少し思案するとある提案をした。それは出陣の日程をずらすこと。
「殿。恐れながらその出陣、早める事は出来ませんでしょうか?」
「早める? 何故だ」
「水張月(六月)に烏兎の即位式があると仰いましたね。その後の出陣となりますと、少々厄介な事がございます」
「厄介な事?」
「はい。即位式とは文字通り烏兎が其々の地位を正式に継ぐということ。つまり今まで二人に“分散”していた烏師の力が赫夜一人に集約されるということです」
弓月のその意図することはすぐに理解できた。つまり即位式を受けるということは、老体となった十五夜から残りの『鬼道の力』を受け継ぎ、赫夜は“完全”な烏師となる。それは恐らく陰陽国を囲む結界を更に強固なものにしてしまうことだろう。
「殿、真の烏師となられた赫夜の結界を破ることができる者など、恐らくこの地にはいないでしょう。そして領主たちの持つ“手形”も無効化される、どうやって進軍されるつもりですか?」
「いや、それは…。国司の手形でも使おうかと思っていたが…、その話を聞く限り無理そうだな」
「はい。しかし出陣時期をずらすことで、“可能性”が見出せるでしょう」
「何故だ。その秘策とは!?」
予想通り青林が食いついたのを確認した彼は手で隠した口元を密かに歪めると、その“策”について語り始める。
「進軍を早めていただけるのでしたら、僕がその結界を壊して差し上げますよ」
「弓月が?」
「今の不安定な赫夜と老いぼれた十五夜の結界なら、恐らく僕の力で綻ばせることが出来るでしょう。一度傷つけてしまえば、もう結界が再構築することは今の二人には不可能だと断言できます」
弓月の見立てでは、既に鬼道の力が衰えた十五夜と受け継いだ力が不安定な時期の赫夜、その二人ならば壊れた結界を再構築することは容易ではないとのことであり、弓月ははっきりと自分の力で“綻ばせることができる”と断言した。その言葉を青林は聞き逃さない。
「本当にできるのか? 烏師の結界を壊すなど…」
「僕を舐めないでください。こう見えても術者の端くれ、弱まっている結界であれば壊すのにそう苦労は致しません」
「そうか、相変わらず頼もしいな。では日程を早めるとしよう、父上に伝えてくる」
余裕に満ちた弓月の物言いに安堵の溜め息をついた青林は彼の言う通りに、出陣の日取りを早めると宣言した。思い通りに事が運ぶ様を見てひっそりと口角を上げる弓月の横を青林が過ぎ去っていく最中、青林は弓月の華奢な肩に手を置くと期待と信頼に満ちた眼差しで礼を告げた。
「ありがとう、弓月。全て君のおかげだ、君が我ら青龍にいてくれて良かった」
「ぁ…はい、ありがとう、ございます」
「…では父上のもとへ行ってくる」
弓月にお礼をすると青林は覚悟を決め、恐らく逆鱗に触れた状態である父のもとへと向かった。
青林が去り一人その場に残った弓月は呆然と立ち尽くし、足元に残る赤黒い跡を見つめながら先程青林から掛けられた言葉を頭を中で永遠と反芻した。
「……“君のおかげ”、“君がいてくれて良かった”、そんなの…初めて言われた…」
耳慣れない言葉を飲み込むのに十分な時間を掛けた弓月は、青林の誠実で人を疑う事を知らない真っ直ぐな性格に皮肉めいた愚痴を溢した。
「…馬鹿なひとだ。僕に利用されてるとも知らずに…。ほんと、馬鹿な…」
❖ ❖
本丸の邸の奥、先代当主“青山”が療養する座敷には床に臥したままの青山と、その継室“逃水”が息子の到着を今か今かと首を長くして待っていた。今にも爆発しそうな怒りに震える青山を逃水がなんとか宥めてはいるものの、座敷から漏れ出る気迫は、前を通る使用人たちを萎縮させ皆足早にその場を去って行く。覗き見る事すら憚られる空気の中で、臆さず平常心で入室出来る者など、今の青林をおいて他にはいない。
「――失礼致します。父上、只今参上仕りました」
「…座るが良い。長い話になるからな」
「はい」
入室してから一度も青林の顔を見ようともしない青山は座敷の壁に掛けられた掛け軸をジッと見つめていた。その掛け軸は青龍が先祖代々受け継いできた、初代の掲げた『家訓』が書かれている。
“何があろうとも、我が身命を賭して烏兎を御守りしその忠義に背くこと勿れ”
これは『青龍』に生まれ、『青龍』を継いだ者が名前と共に背負った『宿命』。青山にとって生きがいであり、生きる目的だった。それを穢した張本人が今目の前にいる、実の息子。それが青山にとって一番腹立たしいことだった。
顔を見せないながらも布団の上に置かれた拳が怒りに震えているのを見て、青山が何か言い出す前に青林の方から口火を切った。
「…父上、出陣は二月後です。我ら青龍軍と他の領主軍の力をもって、陰陽国に潜む“諸悪の根源”をこの地から絶ってみせます」
「黙れ――! 自分がなにをしたかわかっているのかっ!?」
「…わかっておりますよ。すべて、我が領民と“父上”の為でございます」
「わ、わたしの、為だとっ?」
「はい。父上、御身体の不調はその後いかがですか。最近、大量に水を飲んでいるにも関わらず身体が乾燥してしまうとのことですが?」
「うっ… それがどうした?」
「もうわかっておいででしょう、その原因が烏兎にあるということです」
確信に満ちた青林のはっきりとした発言に反論すらできず息を飲んだ青山は、ゆっくりとこちらを向くと困惑した顔で青林を凝視する。“青龍”にとっての大罪を犯したにしては何か吹っ切れた表情をした青林を見て、もはや引き返すことなど出来ないことを察した青山はもう、がやがやと騒ぎ立てることはなかった。
「…もう、後戻りはできないのだな?」
「はい。私共も、覚悟はできております」
「その結果に、この“聖地の理”を穢すことになったとしても…か?」
「……はい。烏兎無しでもこの“聖地”が存続できると、証明してみせますよ」
揺らぐことのない青林の決意を覆すことを諦めた青山は短く「そうか」とだけ呟いた。
夫と息子の会話が終わったと認知した逃水は、次は自分の番だと口を開いた。その話題は、青林の大切な“家族”のことだった。
「ところで青林。今回の進軍にあたり、陰陽国の主要な者達は皆刑に処すのでしょう?」
「…はい、そのつもりです」
「なら、烏兎の分家も皆罪人として処すのでしょう」
「…何が仰りたいのですか?」
「では結論から申し上げます。貴方、あの女―――“陽炎”とは勿論離縁するのでしょう」
「りえん……」
考えてもみなかったことだった。逃水に言われてハッと自分の家族の事を思い出した。
烏兎の一族を罰するということは、正室である陽炎の両親、妹達も等しく罰するということ。彼等が烏兎の分家である以上、それは避けられないことだ。なら、残された陽炎と二人の子供はどうなるのだろうか。
「…離縁して、その後はどうするおつもりですか?」
「そうですね。陽炎と浅葱にはここを出てもらって、尼寺にでも引き取ってもらいましょう。青葉は…」
「青葉は跡取りです。どこにもやる気などっ」
「離縁された正室の子など跡取りとしては認められません。青葉は廃嫡とし、城内からは出します」
いいですね、と有無を言わさぬ逃水の言い方に青林が荒げた声を上げようとしたのを、穏やかな青山の問いかけが遮った。
「…だが今後の跡取りはどうする? 青林は陽炎一筋で他に子はおろか、側室の一人もおらぬ。青葉を廃嫡した後、後継なくして青龍は存続できんぞ」
「心配ありません。青林殿はまだお若い、すぐにでも領内から継室を見繕いましょう。その娘が新たに嫡男を産めば良いことです」
「……青林、お前はそれでよいのか?」
つらつらと並べ立てる逃水に圧倒され唖然とする青林は突然話を振られて内心焦った。逃水の言っていることは由緒正しい名家なら至極当然のことであり、実家が没落どころか敵対関係になった正室をいつまでも囲えば、いずれ内部の火種となり得る。その危険性を鑑みれば逃水の言う通り、陽炎と離縁して青葉を廃嫡するのが正しいのだろう。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。これは当主としてのこれからの人生だけでなく、青林一個人としての人生にも関わってくる決断であり、じっと自身の返答を待ってくれている青山を前で適当な返事は出来ない青林は、深く思案した上で一つの答えを導き出した。
「…離縁は致しません。今後とも私の正室は陽炎であり、嫡男は青葉です。これを変えることはありません」
「な、なにをっ!? 敵である烏兎の血が混じった子に、青龍を継がせる気ですか! そのような事、大殿がお許しになるわけ―――っ」
「―――良い。其方の意見を尊重する、好きにせよ」
「青山様! このままでは“青龍の血”が穢れます。正しき血統を守る事も当主の大事なお役目でございましょう?!」
「もうやめぬか逃水。恐らく其方の思うようにしたところで、此奴が陽炎以外と子を儲けることなどせん。…儂がそうだったように」
「っ……」
かつて、一番に愛した女を亡くしその一人息子を守る為、形だけの夫婦となる道を選んだ青山にそう言われては、もう逃水が反論することなどできなかった。
青林もまた、自身の愛する家族を守る為に決断を下し、頑として覆す意志がないことを目で訴え、逃水は深いため息の後その場は仕方なく折れた。
「…わかりました。貴方の好きになさい」
「ありがとうございます」
全ての憂いは消え去った。後は己の軍と他領の軍を招集し、陰陽国へ進軍するのみ。
先陣は勿論、涼風に任せよう。生まれた時から共に育ち、共に剣の腕を磨く為切磋琢磨し、苦楽を共にしてきた実の兄弟のような涼風ならば、安心して最前の指揮を任せられる。寧ろ、あやつしか適任はいない。
…そのはずだった。
「…申し訳ありません。その任、お断りさせていただきたく存じます」
当然のように『肯定』の言葉を期待していた青林の脳機能は刹那、その機能を停止させた。二人を隔てる空間は空気が凍り付いたように息苦しく、うまく吸気できない青林の喉が引き攣れながらも二の句を紡ごうとするも、続けた涼風に遮られた。
「申し訳ありません。たとえそれが勅命であろうと、私にそのような事はできませぬ。詳しくは申せませんが、この件に“烏兎の虚偽”は関係ありませんということだけ、お心に留めていただきたい」
更に涼風は青林の命令を拒否しただけでなく、青林が一連の原因だと豪語した“烏兎の虚偽”と、その他の関連性は皆無だと、青林を意見を否定した。
二つ重なった涼風からの完全なる“拒絶”は、それまで二人の間で積み上げられてきた“無償の信頼関係”に大打撃を与えた。
常に己の正義を信じ、それを後押しして支えてきた涼風に裏切られた青林は膝から崩れ落ちそうになるのを抑えるように大きく溜め息をつくと、最早なんの感情もこもっていない双眸で涼風を睨みつけ冷たく言い放つ。
「…そうか。ならばお前には暫くの間、蟄居を命じる。許しが出るまで、私の前にその顔を晒すな」
最後に小さく「裏切り者」と吐き捨てた青林は踵を返して二人の前から立ち去った。それを必死に追いかける陽炎を見送り、涼風は何もできない自分を呪った。
自分が出陣を拒めば青林も思いとどまってくれるなどと安易に思考した結果がこれだ。最早あの状態になった青林は、涼風の言葉になど聞く耳持たないだろう。
それでも無意味に伸ばされた右手が空を掴む感触で自身の無力感を思い知った涼風は、ただ無言で青林が去った方向とは逆へ踵を返し沈黙の背中はそのまま廊下の奥へと消えていった。
そして双生の魂は運命の坂を転げ始めた。
本日の後書き 『春風』について
代々青龍の一族に仕える“風真”の一族の長で、涼風の実父。青山の代には大老を勤めていたが、病を理由に退きそのあとを息子の涼風に託した。厳格に“風真の教え”を守っており、その為ならば息子ですら手放す。この“教え”は代々長男のみに継承するため、涼風の次に生まれた次男はとある家に養子に出したという。
この出来事で夫婦仲、親子仲が悪くなっている。涼風には「頑固で強固過ぎる石頭」と陰で言われている。そんな彼も、実は次男への未練を捨てきれずにいることは誰も知らない。




