第76章 濃霧のなかの暗殺者
いつからか、あたりはこの細かな水滴で満たされていた。それは空気のなかを漂い、きわめて高い密度で集まって白い煙のようになり、周囲のすべてを包み込んでいる。
この現象は、「霧」とも呼べるようだった。
これらの水滴はおそらく、海水のなかから立ち昇ってきたものだ。風が吹けば海面から小さな水滴が数多く巻き上げられ、同時に多くの小さな泡が水のなかへと入っていく。なぜこれほどの大量の水滴がここに集まっているのかはわからないが、海水の温度が上がったことと関係があるのかもしれない。
霧が大量に立ち込めたことで、リンの視界は最低のところまで落ちていた。だが、リンはこの水滴をすべて集めるべきだと考えた。もし陸地で生活するなら、水源を守っておかねばならないのだ。
リンはリヴァイアサンの体内である兵種を構築した。この兵種の体は球形で、体表には毛羽立った細かな触手がたくさんあり、空気中の水分を捕まえて体内に蓄えられる。
だが、リンがまさにこれらの兵種を放とうとしたとき、ふと異様な感覚を覚えた。
何かが……あたりの濃霧のなかを動いている。蠍ではない。何かしら巨大なもので、それはこれまでにない未知の匂いを漂わせ、活動の仕方もきわめて奇妙だった。まるで胴体を地面にこすりつけて動いているようで、脚もなければ、そのほかの移動用の肢もない。
これは蠕虫の移動法によく似ている。陸の上でそのように動けば、かなり体を摩耗するはずなのに。
これまで出会ったことのない新種の生物か? 危険かどうかはわからない。だが、ここには死んだ魚がかくもたくさんあるのだ。相手が輸送者を標的に選ぶことはあるまい。
リンは輸送者たちを一塊にしてぴくりとも動かさず、これらの生物の注意を惹かないようにし、注意深くやつらの動向を感じ取った。
やつらの数は多く、おそらく十数匹以上はいる。その奇怪な移動法のせいで大きさを見積もるのは難しいが、少なくとも蠍などよりはずっと大きかろう。
それら数匹の生物はまず、魚の死体が多い方へと這っていった。しばらくもしないうちに、リンは空気中からある種特別な震動感が伝わってくるのを感じ取ることができた。
ブロントスコルピオの甲羅が噛み砕かれる感覚だ。
どういうことだ? あの生物たちは死んだ魚を食べに来たのではなく、蠍を捕食しているというのか?
妙だな。そこらじゅうにある餌を食べずに、自分にけがを負わせかねない、毒針を持つ蠍を食べるとは? まさかやつらは、腐った死体を食べると吐いてしまう類のものなのか? 実際のところ、そうした類の生物はきわめて少なく、一億年のあいだにもリンは少数の魚でしかそれを見かけたことがなかった。
リンがまさに惑っているとき、突然、嗅覚に奇妙な感覚が伝わってきた。これらの奇妙な生物たちの未知の匂いが、忽ちのうちに猛然と拡散し、どうやら一帯すべてを覆い尽くしたらしい。
やつらはまさか、大量に自らの匂いを放出しているのか? なぜだ? 他の生物の嗅覚を遮断するためか? たしかに、これではリンもやつらの位置を匂いで正確に嗅ぎ当てることはできない。やつらが動くときの震動で判断するだけでは難しすぎる。リンはまだ、空気のなかで震動の方角を判断するのにあまり慣れていなかった。
突然、リンはあたりの震動が急に加速するのを感じた。それとほとんど同時に、集団の外周にいた一匹の輸送者が何かに噛みつかれ、猛然と濃霧のなかへと引きずり込まれた。
激痛の感覚がすぐさま続いた。この輸送者は強力な力で甲羅を圧し砕かれ、さらに無数の鋭い歯でずたずたに引き裂かれ、最後にまだ生きていたいくつかの細胞もその生物の体内へ呑み込まれて溶け死んだ。
と、突然にもう一匹の輸送者が別の生物に噛みつかれ、霧のなかへと引きずり込まれた。
これらの生物は危険だ! どうやらやつらは死体に興味がなく、しかもどれほどの大きさなのか、何匹いるのかもわからない。このままでは厄介なことになる……!
リンは深く考え込まず、リヴァイアサンに数本の「養分供給管」を作り出させた。この管を周囲の数匹の輸送者に接続すれば、輸送者たちがリヴァイアサンに養分を送り届けられ、リンは消耗を度外視して大量の兵種を製造できるようになる。
この兵種は主に殺戮者の改造型で、やつらは陸上を小型の節足類のように走り回ることができ、体内には感染者ウイルスと毒液をぎっしり詰め込んである。リンは普段は毒などの類を使うのをあまり好まなかったが、巨大な脅威に直面したときには、ためらいなくそれを用いるつもりだ。
この陸用殺戮者の全長はわずか十センチだ。リンは素早く十数匹の殺戮者を製造し、やつらに集団全体を取り囲ませた。
このとき、集団の西側から震動感が伝わってきた。これは先ほど攻撃を受けた方角だ。
攻撃!
西側を担当する五匹の殺戮者が、すぐさま頭頂に小さな孔を開け、体内の致命的な噴射物を震動の方角へ向けて噴き出させた。リンの特別な設計により、これらの噴射物には多くの種類があった。毒素やウイルスなどであり、先頭にあるのは溶解液を満たした炸裂弾で、相手の皮層か、あるいは甲羅を溶かして開ける役目だった。それに続く毒液とウイルスが、標的の体内へと浸透できるのだ。
しかし、目が見えない状況では、リンはその効果が結局のところどれほどなのかを知りようがなかった。
突然、一つの巨大な影が猛然と霧を突き破り、殺戮者たちの視界へと躍り込んできた。
リンは初めてこの生物の姿を見た。それはさながら全身を堅い甲羅で覆われた巨大な蠕虫のようであり、ダンクルオステウスのような巨大な頭部を持ち、その身の甲殻には逆鉤状の尖った棘が幾重にも輪を成して生えていた。明らかに、先ほどの殺戮者の攻撃はその全身の鎧を貫けなかったのだ。
やつは鋭い棘の生え揃った巨大な口を開け、一匹の輸送者に噛みつくと、すばやく後退し、一瞬で濃霧のなかへと消え失せた。
リンは瞬時に標的を失い、追撃をしようにもそれすらできなかった。
あたりの匂いも覆い隠されており、あの断続的な震動感だけでは、リンにはあたりの状況をまったく判断できなかった。やつらが何匹いるのかさえも知れない。
……これでは危険だ。
逃げるしかない。
海のなかへ逃げ込むのは不可能だ。今、海水はあいかわらず熱い。ならば、方角は一つしかない。
リンは殺戮者たちを、外周にいる輸送者たちの体の上に這いつくばらせた。そうすれば、相手は殺戮者と輸送者を一緒に体内へ食べ入れてしまうかもしれない。そうなれば、殺戮者のウイルスと毒素がやつらを傷つけられるのだ。
準備を終えると、リンは輸送者たちの「付属脚」を駆動させ、自らの記憶にあるあの巨大な尖柱の方角へ向けて素早く走らせた。
あの尖柱は比較的密集しており、これらの生物は頭が大きすぎるから、きっと潜り抜けられまい。
このとき、あの生物たちが再び震動を起こした。リンはやつらに「ミストワーム」という名前をつけた。これはおそらく北の大陸だけにいる生物だろう。だが、今のリンにやつらを研究している心の余裕はなかった。
一匹の蠕虫が輸送者の集団の西側から飛び出し、極めて速い速度で一番外側にいた輸送者に噛みつくと、素早くまた霧のなかへと縮み戻っていった。だが、この輸送者の体には、なお一匹の殺戮者が這いつくばっていた。
輸送者が噛み砕かれる感覚が伝わってきてまもなく、リンは一筋の連続した震動感を感じ取った。明らかに、この蠕虫は輸送者と一緒にその体の上の殺戮者まで一塊に噛み砕き、今や毒液とウイルスがそいつの体内へと浸透しているのだった。
やつに抗毒能力があろうとなかろうと、苦痛を味わえばもう追ってはこまい。だが、このあたりにはこの蠕虫一匹だけではない……
続いて、またもや急襲だ。今度は隊列の東側にいた一匹の輸送者が、濃霧のなかへと引きずり込まれた。
隊列の外周にいる輸送者には、すべてリンの殺戮者が上に這いつくばっている。蠕虫がうっかり殺戮者を一緒に食べ入れてしまえば、リンはやつらが苦痛に藻掻くときに伝わる震動を感じ取ることができた。
これらの苦痛にのたうつ蠕虫が、再び追ってくることはありえない。だが、それでもなお、輸送者は絶え間なく捕まえられていった。リンは最初、やつらは数匹だけだろうと思っていたが、きっと見積もりを誤ったのだ。
数十? 数百? いずれもありうる……リンにはそれほどの震動を感じ分けられなかったが、輸送者が絶えず捕食される現象から見れば、たしかにそれだけの数がいた。
リンは立ち止まらず、速度を上げて目的地へと突き進んだ。このあいだにも、絶えず蠕虫が霧のなかから飛び出してきては急襲し、輸送者の数も絶えず減り続けていった……
単細胞の時代を離れてからすでに一億年が過ぎていた。リンは再び、自らの生命が脅威にさらされているのを感じていた。
しかしリンには、深く考えている余裕はなかった。また一匹の蠕虫が濃霧から飛び出してきた。今度のそいつの標的は輸送者ではなく、隊列の最後方にいるリヴァイアサンだった。
リンはほとんど一瞬のうちに、毒液を満たした炸裂弾を準備し終えた。炸裂弾は後方の噴水口から猛然と射出され、まさに蠕虫の開いた巨大な口のなかへと命中した。
毒弾を食い入れた蠕虫は、絶えず痙攣しはじめ、身をよじらせ、極度の苦痛を受けたかのようだった。
リンはやつを無視し、さらに前方へと逃げ続けた……




