35.バルドル
バルドルは夕焼けに染まる中庭で花冠を作っているアリスを眺める。
トールがやってくると、単純で明るいトールに釣られてか、塞ぎ込んでいたアリスは少し気分が上向いたらしかった。ふたりで楽しそうに何かを話している。エトヴァスはそれを魔術書を見ながら見守っていた。
バルドルは少し離れたところから中庭を通り抜ける強い風を感じながら、海に視線を移した。海と夕日、闇と緋色、多少雲があったとしても、その光景は美しい。バルドルはためく白銀の髪をかき上げる。
幼い頃、バルドルはよくこうして断崖絶壁に立つフェンサリル宮殿に差し込む夕日を眺めていた。
バルドルの立場は生まれた時から恵まれていた。魔族で十二人しかいない将軍オーディンと、彼が寵愛する人間の妃フリカの息子であり、オーディンに手元で育てられるバルドルは、いつもオーディンという傘に守られていた。ひとりだちをしてからも、オーディンの息子だからと手を出さない将軍たちは多く、オーディンもまた息子かわいさに牽制をした。
だが、バルドルは他者からの評価がいつも合致してない気がしていた。
この宮殿の一室に閉じ込められる母は、幼い頃のバルドルには酷く不幸に見えていた。
母は父を好きだと言って、いつも鳥籠のなかで父を待っていた。本当は鳥籠から出られたのに、鳥籠から出ず父を待っていた。父は母の元に常に通っていたけれど、自分勝手に母を求めるだけで母の気持ちを考えようとはしなかった。
両親がそれぞれ自分を愛していることは知っていた。でも人間と魔族というへだたりは常に大きく、ありとあらゆることで二人はよく揉めた。そのなかにはバルドルの教育方針もあり、だいたいの物事は父が母に押しつける形で収束することが多かった。
母は悲しそうな顔をしていた。そういうとき、母はバルドルとともにオーディンに隠れてここから朝焼けや夕日を眺めることが多かった。
バルドルがある程度ひとりで動くようになると、父母の喧嘩は減った。けれどバルドルはいつしか、息が詰まるような心地がするとき、ひとりでこの場所に来て、夕日を眺めるようになった。
そしてこの場所の夕日は、久方ぶりに見ても千年前と変わらない。
「・・・赤いな」
低い声を後ろからかけられ、振り向けばそこにはオーディンがいて、短い白銀の髪を赤く染めていた。
「おまえは昔からここが好きだな」
だいたいひとりでここで夕日を眺めていると、決まって迎えに来るのはオーディンだった。だが、それが不快だったことを、今でもよく覚えている。
「別に好きなわけじゃない。お母様とよくここに来て海を見てたから、感傷に浸っていただけだよ」
「は?」
母は父の結界があって部屋から出られない。それが建前であることを、バルドルは随分前から知っていた。
「お母様、少なくとも僕が覚えてるときだから、二歳くらいかなぁ。その頃にはもうあんたが部屋に張っている結界をずらして、外に出てたよ」
オーディンが母を閉じ込めるために張っていた結界は強固なものだった。だが、母は比較的そういうのをずらしたりして穴を作るのが得意だったのだろう。バルドルは時々オーディンが帰ってくるまでの夕方中庭に出してもらっていたし、母とともに夕日を眺めることも多かった。
侍女のフッラたちも黙認していた。
「アリスにも言われただろ?お母様はあんたの籠の鳥でいてあげてただけだよ」
母はいつでもオーディンのもとを逃げ出せた。それなのに逃げ出さなかった。母はいつでも父のものでいようとしたし、父の前では常に女としての自分を優先していた。だから父が宮殿にいるとき、ここにいるバルドルを迎えに来るのはオーディンだけなのだ。
子供のバルドルには母が父を優先することをまざまざと思い知らされるようで、不愉快だった。
「だったらなおさら、信じられなくてフリカを殺したのは俺だな」
オーディンは静かに目を伏せた。
父がもっと母の気持ちを聞いていれば、別の未来があっただろう。鳥籠の鳥として生きるのではなく、アリスのように自由な空の下で、他人に囲まれて笑って生きられたのかも知れない。穏やかにオーディンとバルドルで母を見送る未来が、あったのかも知れない。
「それでもお母様は、お父様が好きだったよ」
バルドルから見れば偉そうに自分の意見ばかりを押しつける父親でも、母は父が好きだった。
「僕はそれを知ってる。全部、知ってた。だからこそ、やりきれなかった。それだけだよ」
バルドルは幼い頃からこの宮殿で母と父を待っていた。魔族ばかりのなか、たったひとり人間で心細がる母とその感情を共有しながら、待っていた。母がいつも父が大好きで、ずっと父を愛し、文句を言いながらも彼の帰りを待っていたことを知っていた。
だからこそ、すれ違う両親がやりきれなかった。
「・・・悪かった」
オーディンはバルドルが感情を吐露すれば、珍しく素直に謝ってきた。だが今さら謝られてももう終わった話だ。バルドル自身もかわいげのある子供ではなかった。
「別にいいよ。その分、僕も子供だったから八つ当たりしまくったし」
「・・・」
バルドルは幼い頃からオーディンからの愛情を疑っていなかった。だからこそ気に食わなければ父に椅子などものを投げるくらいのことは平気でしたし、些末な嫌がらせでオーディンが気づいていない分も含めたら相当のことをした。
なにも言わずとも、そういうつまらない些末な嫌がらせで鬱憤を晴らしていた。
それでも千年もたてば、嫌でも気持ちの整理はつく。父に鮮烈な憎悪を向けた時期もあるが、それでも大人になればそんな激しい感情は薄れた。納得できる部分も増えた。結局、バルドルはオーディンの隣にいることを選んだ。
とはいえ、完全に割り切れたわけでもない。もちろん、もういいのだ、なんて大人びたこと、多分数年前なら思えなかった。母が死んでからずっと、なにかが心の中でくすぶり続けていた。それでも前を向くことができたのは、アリスのおかげだ。
「後悔するなら、アリスに手をかけてあげてよ。あの子はまだ子供なんだ」
バルドルは夕日に染まる花畑で花冠を作って笑うアリスを振り返る。
二メートルを超す大男であるトールに花冠を被せて笑っているアリスは、少し気分が上向いたらしい。トールは暗い話を一切しない。ただ、よく笑う。だからアリスもそれにつられるように暗い顔ができない。食事量は戻っていないが、夕飯はエルフと魔族の混血であるかつての母の侍女フッラが作ってくれるそうだ。心慰められて、少しでも多く口にしてくれるといいと思う。
過去など、もう過去だ。今、大事なことがある。繰り返す日々が確かにある。
「・・・わかってるよね?アリスが家族を守るんじゃない」
バルドルは振り返り、夕日で赤く染まるオーディンを睨む。
『今度はわたしが、お父様や、お兄様を、家族を守るよ』
フリカを看取ったアリスの記憶のなかで、アリスはフリカにそう約束していた。父であるオーディンや兄のバルドルを守ると、そして自分の家族を守ると約束した。だが、そんな馬鹿な話はない。
「親が子を、年長者が年少者を守るのであって、アリスが守るのはこれから作る自分の家族だ」
人間の形成する家族という形態はあくまで年長者が年少者を、強い者が弱い者を守るのだ。決して逆ではない。
「アリスは僕らの家族を感情的につないで守ってくれるのかも知れない。だけど力で守るのは僕らの役目だ」
バルドルは、千年前のなんの力もなかった子供ではない。オーディンだって魔王ファールバウティを殺して魔王になっている。今なら魔族の支配領域でも人間のアリスにこの広い空の下、自由に笑える人生を与えてやれるはずだ。
今度こそ、フリカのように窮屈な生活を強いなくてすむ。そうしなくてはならない。
「わかってるさ」
オーディンはがしがし自分の短い白銀の髪をかきながら、息を吐く。バルドルも、すでにエトヴァスから聞いて覚悟している。
百年前にオーディンが殺したはずの先代の魔王ファールバウティは、生きている。人間の要塞都市フェーローニアのなかで自分の混血の息子にとりついて、今も生きている。生きてかつての恋人に似た、アリスを狙っている。
確かにフリカの呪いのおかげで、バルドルとアリスは幸いなことに魔王ファールバウティに殺されることはないのだろう。だがそれも混血の自分の息子にとりついている限り、どこまで有効なのかは怪しいところだ。
もしかするとファールバウティは、バルドルなど一部の血筋に手を出せないことを悟り、体を変えたのかも知れない。
だからといってあの日から千年もたったのだ。バルドルもエトヴァスもいつまでも母親たちに支えられるほど子供ではない。
そして、オーディンはなおさらだ。
「フリカとの約束だ。俺はおまえやアリスを、家族をちゃんと守る」
珍しくはっきりしたまともな返事に、バルドルは笑った。
母は父が好きだった。そして母は死んだけれど、父は一生母を忘れられないのだろう。もしそれを聞けば、母は喜ぶに違いない。いや、もうアリスからそれを聞いて喜んだのかも知れない。なにも聞くことはできないけれど、澱むような気持ちは千年で整理がついている。
母の死とともに力のない自分に対する挫折は、バルドルの心を長く塞ぎ続けた。だから、今度こそ守りたいと思う。
「僕らもしっかりしなくちゃね。アリスには母親がいないんだから、これからアリスに子供ができれば、相当手伝わなくちゃいけなくなるんだよ」
アリスの実母はエルフのルカニアだが、四歳でアリスを捨てており、もともとネグレクト気味だったと聞いているから、ほぼ機能しない。養母フリカは死んだ。エトヴァスの母親ラウフェイも死んでいる。母親組は、もういないのだ。
それならばすすんで手を貸すべきは、当然だが養父であるオーディンであり、兄であるバルドルであり、トールだろう。指摘するとオーディンはわかっていなかったのか、驚くほどげんなりした顔をした。
「どうしたの?」
「俺、・・・ああああああああああああ、やっぱりビューレイストにやりたくねぇええええ」
オーディンがうずくまり、雄叫びを上げる。バルドルはまたそれかとげんなりした。
「なんで!?なんであいつなんだよ!!」
以前からそうだが、オーディンはアリスをエトヴァスにはやりたくないらしい。エトヴァスはオーディンの甥だが、フリカの片腕を奪った憎き魔王ファールバウティの長男で、見た目はそっくりだ。そのあたりがどうしても許しがたいのだろうが、アリスが彼を気に入っているので仕方がない。
「アリスはエトヴァスが好きなんだから、仕方ないじゃないか」
「よりにもよって、なんであいつなんだよ!!」
「そんなことを言い出したら誰ならいいのさ。将軍で未婚者いろいろいるけど・・・ろくな奴いないよ」
魔族は強さがすべてだ。十二人いる将軍は強さで前任者を殺すなどしてのし上がっており、まさに強さの象徴だ。ただくせ者が多く、バルドルでも誰も特別、良いと思わない。強さだけを考えるのなら、やはり自分をのぞけば、エトヴァスかロキと言うことになる。
ロキはエトヴァスの弟で、過激派の将軍の筆頭でもある。エトヴァス、バルドルと並ぶ魔王候補だが、アリスを狙っているし、穏健派の将軍の筆頭のバルドルとは常に対立関係にあるので、妹が嫁ぐのは避けたい。
そうするとやはり中道派の将軍の筆頭であるエトヴァスしかいない。
「なんでせめておまえじゃねぇんだよぉおおお」
「無理だよ」
「へ?」
バルドルが即答したせいか、オーディンはうずくまったままぽかんとした表情でバルドルを見上げてくる。バルドルは鈍い男だとため息をつく。
「この間、僕が泣いているアリスを抱きしめてなだめてたとき、エトヴァスがどうしたのか覚えてる?」
「焼き餅焼いてアリスを回収した」
「うーん。あってるけど違う。あのあと、アリスはすぐに泣き止んだだろ?」
もともとバルドルとアリスは兄妹関係になる前から仲が良かった。アリスはバルドルの共感を心地よく感じている。そして同時にバルドルもアリスの共感が心地よい。だからアリスとバルドルはふたり仲良くできるし、感情を共有したりできる。
だが、それは正の感情もそうだが、負の感情もそうだ。
「僕とアリスは、情緒が似すぎてる。共感できすぎる。とくに同じ事象になると、あのまま僕が慰めていてもお互いにおさまりがつかなくなる」
どうでも良いことの時は良い。アリスが泣いているのを落ちつているバルドルが慰めれば良い。だが、フリカのことは共有できる悲しみだ。お互いに沈み、収拾がつかなくなる。アリスも共感を得て激しく泣くことになる。バルドルの気分も同じように沈む。
「エトヴァスは寛大だからね。焼き餅を焼いていても、アリスの感情を優先することが多い。あのままおさまるなら放っておいてくれたはずだよ」
エトヴァスが泣きじゃくるアリスをわざわざ呼び寄せたのは、帰着点が見えたからだ。エトヴァスは純血の魔族なので、アリスに共感できない。逆に言うと、だからこそアリスも引きずられることなく悲しみから我に返り、早く冷静に戻れるのだ。
「傷の舐めあいや共感は心地が良いけど、なにも解決しない。だから恋人やパートナーにしたら破滅する」
バルドルは母親から豊かな人間としての情緒を教わってきているからこそ、アリスの傍が心地が良い。だが、そうなればもはやバルドルは魔族のなかでは生きていけなくなるだろう。とくに悲しみやさみしさは直視し、共有しすぎれば立ち直れなくなる。
バルドルが笑うとオーディンは複雑そうな顔をした。それをバルドルは知らないふりをする。
「お父様、バルドルお兄様、夕飯がもうできているみたいだよ」
アリスが笑いながら駆け寄ってくる。その拍子に母と同じ亜麻色のお下げがひらりと揺れた。だがふとアリスがその紫色の瞳で、バルドルを見上げた。
「・・・バルドルお兄様?」
気づかれたなと思い、誤魔化すように笑う。ただ誤魔化したってアリスにはわかってしまったのだろう。アリスは小さな手をバルドルの手に重ねてきた。アリスはバルドルの細やかな感情の機微に気づくことができる。同時にバルドルもそうだ。
そしてだからこそあまりに近くで生きれば、同じ方向しか向けなくなるだろう。だから、駄目なのだ。
「今日はウサギとお野菜のスープなんですって、トールお兄様も好きなのですって」
アリスはバルドルの落ち込みに気づかないように話を振ってくる。だからバルドルも釣られるようにその話に乗った。
「トールが?」
「うん。ね、トールお兄様!」
「んー?」
アリスは早々にトールを呼んだ。するとトールはけだるげに風に揺れるもこもこの赤毛を押さえながらやってくる。
「ウサギとお野菜のスープの話だよ。今日のお夕飯はそれだって話してたでしょう?」
「あぁ、あれ結構美味いんだよな。昔フリカがいた頃、何度か盗み食いしたんだよ。フリカの侍女のばばあが怖くてさぁ。怒り狂って追いかけてくんの。さっきもちょっと頂いてさぁ」
トールは思い出したのか、おかしそうに腹を抱えて笑う。だが、バルドルは手をつないだアリスと顔を見合わせた。聞き捨てならない話だ。二人で同時にトールに向き直る。
「え、トール、もう食べたの?」
「トールお兄様、どういうこと?」
「いや、ちょっとだぜ?」
トールが口を尖らせる。だが、なんといっても体格二メートルの「ちょっと」だ。これは夕食がなくなった可能性が高そうだ。案の定、遠くから侍女のフッラらしい声が聞こえている。
「トールお兄様、ちょっと食べたの、ちょっと残したの?」
「なんだろこんくらいちょっと残した」
アリスの確認に、ちょっとを大きな手の人差し指と親指で作る。
「おいおいおいおい、五人分だぞ!?残ったのがそんだけ!?」
オーディンがトールに怒鳴った。ただトールはその若草色の瞳をぱちくりさせ、人差し指でかりかりと頬をかく。
「・・・・え、えっと、その腹減ってたし」
「それ夜の俺達の飯だろ!?どうすんだよ!」
「え、どうすればいいんだ?」
「おまえの責任だろ!?考えろや!!」
素朴にどうすれば良いのか悩んでいるトールに、オーディンは正論を叩きつける。だがトールではたいして良い案は思いつかないのだろう。黙り込んでしまった。
「なにか問題か?」
エトヴァスが空気を察し、歩み寄ってくる。するとアリスはすかさず告げ口をした。
「トールお兄様がお夕飯食べちゃったって」
「五人分喰ったのか。餓鬼のような男だな」
エトヴァスは淡々と感想を口にしてから、少し考えるそぶりを見せた。
人間でよく寝るアリスはまだ十二歳で、就寝時間が早い。そのため夕食は六時半から七時の間で、ちょうど今はかれこれ六時を過ぎている。
「別に俺達魔族は喰わなくても問題がないが、アリスはそういうわけにはいかんな。バルドル、このあたりの一番近くの都市はどこだ?」
「ここから竜で一時間。往復するには時間がかかるから、泊まろうか。食事中に部下に宿探すように連絡するよ」
ここはバルドルの領地なので、周辺の状況は頭に入っている。
食べに言っても良いがこのフェンサリル宮殿は海辺に近くの辺境にあり、竜でも近くの都市まで一時間ほどかかる。アリスの就寝時間は九時過ぎだから、食事時間と夜の支度の時間を考えると往復している時間はない。
すべてを踏まえた上で提案すると、エトヴァスは小さく頷いた。
「おまえは話が早くて助かる。そうしてくれ」
バルドルはエトヴァスの同意を得て、後ろを振り返る。二人はまだ揉めているようだ。
「馬鹿どもはおいていくぞ」
エトヴァスはオーディンとトールなどまったく介さない。バルドルはアリスと顔を見合わせ、また笑った。
出かけることは決まりのようだった。
ここから距離が開いていたバルドルとオーディンの関係も、トールとのそれも、少しずつですがアリスを挟んで正常化していきます。
アリスが死ぬ数十年後には普通程度に普通の話ができるようになるでしょう。
そしてそれがフリカの願ったものでもあります。
自分の死を禍根にしつつも、やはり禍根だけを残しては後味悪いですからね。
相変わらずアリスはバルドルが優しいお兄さんで仲良くしていますし、バルドルもきちんと距離をとった年の離れたお兄さんをしてくれるので、良い関係のままいられるでしょう。
やっと全体的な前提がまとまった感じのこの章でした。
まだ数話ありますが笑。




