33.アリス
「アリス、アリス」
揺さぶられ、目を開ければそこには金色の虹彩の入った翡翠の瞳がある。精悍な顔立ちは最近見慣れてしまっていた少し幼さの残るそれとは違う。まるで魔王のファールバウティのようだ。そう思いながらも、まっすぐ自分だけを映す翡翠の瞳に安堵して、思わず目を細め、気づいた。
「・・・え、エトヴァス?」
間違いない。目の前にいるのはエトヴァスだ。どうやらもとの世界に戻ってきたらしい。
あたりを確認するとやはりフリカの部屋で、空っぽの魔族の入れない白銀の檻がそこに鎮座している。ただ白銀の大きな姿見が粉々に割れていて、破片の一部がこちらまで散ってキラキラ光っていた。
エトヴァスは膝をついてアリスの体を横抱きにしている。百九十センチ以上身長のあるエトヴァスは、簡単にまだ百四十センチしかないアリスを片手で抱いてしまえる。今の状況をぼんやりと把握しようと努めていると、オーディンの姿が目に入った。後ろにはバルドルの姿もある。
あとから来ると行っていたが、バルドルも到着したらしい。
だが、フリカにあまりによく似た琥珀色の瞳を見た途端に、なにを思いだしたわけでもないのに、勝手にぶわっと涙が溢れてくる。
「ぁ」
吐息のような声が、溢れた。涙が視界を塞ぎ、それを拭おうと手を持ち上げて、真っ赤に汚れたそれに気づき、全身に震えが駆け上がってくる。
アリスが視線を落とせば、服は真っ赤な血に汚れていた。誰の血だろう。
「うあ、あ、ぁああああああああああああ」
理解した途端に、アリスは声を上げていた。
「アリスっ」
エトヴァスのいつもどおり低い声がアリスの名を呼び、アリスを強く抱きしめてくれる。だがアリスは自分の名を呼ばれ、抱きしめられていることすら認識できない。
『ごめん、・・・わ、私には、私が選べる未来の、は、これが最高のものなの、家族を、』
血まみれのフリカが琥珀色の瞳に涙を浮かべ、声を震わせてアリスに謝ったとき、アリスは悟った。フリカは最初から全部知っていて、自分の息子であるバルドルやアリスのためにファールバウティを呪って死ぬことを覚悟してアリスを呼び出したと気づいた。
『わ、私、なんて、こと、を』
同時に泣きじゃくるアリスを前に、それを後悔したことも。
アリスは考えた。もう終わりだとわかった。フリカは死ぬと、わかっていた。だから、この最期の瞬間、フリカに自分のしたことに後悔なんてさせてはならない。自分の感情に必死で蓋をして、アリスはフリカの望む答えを探した。
そして、自分の涙をふいて、逆に止めどなくこぼれるフリカの涙を拭った。
『わたしに家族を教えてくれて、お父様やバルドルお兄様、トールお兄様を残してくれて、ありがとう』
それは嘘ではなかった。本当にフリカに感謝していた。精一杯今の終わりを悲しいものにしないように、アリスは笑った。
『全部、全部お母様のおかげだよ。わたしはお母様に会えて、愛してもらえて、守ってもらえて、本当に、本当に幸せ』
血を失い、冷たくなっていくフリカの体を必死で抱きしめながら、アリスは自分の命を賭して家族を守ろうとしたフリカに約束した。
『今度はわたしが、お父様や、お兄様を、家族を守るよ』
抱きしめたフリカの体から力が抜けたのがわかった。
『わた、し・・・がん、ばった?がんば、れた?こんど、こそ、家族を』
『うん、もういいんだよ、十分だよ。ありがとう』
アリスは涙を流さないように歯を食いしばりながら、言葉を重ねた。言葉を重ねれば重ねるほど、フリカの終わりが近づいた。
『・・・うん、うん、』
子供のように頷いて、フリカは目を閉じた。なにもかもがその柔らかな体から抜け落ちていくのが、アリスにはわかった。
逝かないでと叫びたかった。でも、唇をかみしめて耐えるしかなかった。嗚咽のひとつでも漏らせば、フリカは気づいてしまう。最期の瞬間に後悔など、させたくなかった。だから、必死で涙を、嗚咽をこらえた。
『オーでぃ、・・・あいして』
最期の呟きの余韻がすべて消え、命が失われ、体から少しずつ熱が奪われていく。自分が抱きしめる、大事な人の体から自分の大事な人の何かが抜け落ちていく。
それは、アリスがはじめて感じた、大事な人の「死」だった。
「どうしてっ、どうして、」
アリスは四歳で父を亡くした。でも、父はいつの間にかいなくなっていて、死を目の当たりにしたことはなかった。どこかで生きているような気すらしていた。漠然と消えてしまう。それがアリスのなかでの「死」だった。
だから、アリスはどこかで「死」を神聖視していたし、エトヴァスに喰われて死ぬこともさして恐れなかった。短命の自分と長命のエトヴァスの間にいつか横たわる死を意識しながら、自分の死をエトヴァスが少しでも悲しまなければ良いなと、人ごとのように感じていた。
アリスは、「死」を知らなかった。
「こ、こんなのっ、う、うわぁあっっ、」
大事な人が死ぬというのは、「死」に連れ去られるというのはどれほど理不尽なものなのか、狂いそうな悲しみに、アリスはエトヴァスの体にしがみついて泣くことしかできない。それをうまく受け入れる方法を知らない。
それでも、フリカの「死」はもう過去だ。
「アリス、もう終わったことだ」
平坦で感情の起伏の乏しい声が、アリスの混乱した思考に入り込む。
エトヴァスがアリスの頭を自分の肩に押しつけ、強くアリスを抱きしめる。エトヴァスの体が、小さなアリスの体をしっかり支える。揺るぎなく、アリスの悲しみを受け止める。
「・・・おわっ、た・・・?」
終わった。そう、もう終わってしまったことだ。だが、アリスはこのこみ上げてくる気持ちをどうすればいいのか、わからない。わからないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
アリスはエトヴァスの肩から、オーディンとバルドルを見上げる。オーディンは過去の記憶を思い出したのだろう。わなわなと唇を震わせていた。バルドルもだ。フリカのことで、聞きたいことがたくさんあるに違いない。アリスも話さなければならない。
だが、言葉が詰まる。胸がいっぱいなのに、涙や嗚咽でなにも出てこない。考えが、まとまらない。
「どういうことだ?フリカは、どうして」
オーディンはアリスが少し落ち着いたことに気づいたのか、問いただそうと一歩踏み出した。だがそれをバルドルがその形の良い手をひらりとさせて、制す。
「オーディン、お母様に最期になんて言われた?」
「・・・」
「記憶が戻ったんなら、言葉に気をつけなよ」
バルドルがぴしゃりと言えば、オーディンはぐっと唇を引き結び、黙ったまま引き下がった。バルドルはそれを確認してから、エトヴァスに抱きしめられているアリスに再び琥珀色の瞳を向ける。
「まず、アリスに怪我は?」
「なさそうだ。アリスの血のにおいはしない」
バルドルの問いにエトヴァスがすぐに答えた。
アリスはフリカの血でまみれた服を着ている。魔族の血が四分の一しか入っていないバルドルは、血のにおいだけで怪我があるのかどうか、判然としなかったのだろう。
バルドルはそれだけを確認して、泣いているアリスに笑いかけてくれる。そしてアリスを宥めるようにくしゃりと大きなバルドルの手がアリスの頭を撫でた。
「アリス、落ち着くまでなにも言わなくていい」
「・・っ、ぁ」
きっとバルドルのなかに戻った記憶は母親であるフリカの最期までは教えてくれない。気になっているだろう。今、この場で話してしまいたいのに、悲しみや「死」への衝撃ばかりが思考を塞いで、アリスは言葉がちっとも見つからない。
だが言葉が出ないアリスに、バルドルはどこまでも優しかった。
「いいんだよ。今更、過去は変わるものじゃない」
アリスにとってまさに今、先ほど起きた悲しい「死」だ。だがそれは記憶がよみがえったとはいえ、バルドルたちにとっては千年前の、もうある程度整理された喪失だ。
「着替えて、たくさん寝て、食べて、話はそれからしよう」
「・・おにぃ、さまっ」
「ゆっくり休むんだ。良いね」
優しい声がフリカに似ていて、アリスはまた涙がこみ上げてくるのを感じて黙り込む。するとそれすら見透かしたように、困った顔でバルドルがまた笑った。
そして彼は近くで控えていた、フリカの侍女でもあったフッラに視線を向ける。
「休める部屋に案内してあげて」
「かしこまりました」
フッラが頭を深々と下げる。エトヴァスがアリスを抱えたまま立ち上がった。その高さをどこか怖いと感じるのは、きっと過去の世界で百六十センチのビューレイストに慣れてしまっていたからだろう。
アリスはエトヴァスの肩越しに、項垂れている父を見る。
「お、お父様、」
アリスが声をかければ、オーディンが顔を上げた。
すれ違っていたけれど、やり方はたくさん間違っていたけれど、彼が彼なりにフリカを愛していたのはわかっている。そしてフリカが父をどれほど愛したかを、アリスは知っている。
だから、これだけは先に言っておかねばならない。
「フリカお母様は、お母様はお父様が大好きだったよ」
「あぁ」
「最期の瞬間まで、・・・愛してるって、言って・・・」
アリスはもう言葉を続けられなかった。
『オーでぃ、・・・あいして』
事切れる瞬間、フリカはもうなにもわかっていなかっただろう。アリスのことも、もしかしたらアリスとそっくりだったという姉ルシアと重ねていたように思う。それでもフリカは最期まで、オーディンだけをとどめた。
彼女はいつも、オーディンを愛していた。
「あぁ」
オーディンはそれだけしか答えなかった。ただアリスがエトヴァスに抱かれて部屋を出ても、オーディンはそこに立ち尽くしていた。
かつてフリカがいた白銀の檻の前で、いつまでもたたずんでいた。




