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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
十六章 少女、千年を遡る(後編)
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31.フリカ

「フリカお母様っ」


 自分を振り返ったアリスの顔が真っ白だった。それを見て、フリカは今の状況も忘れて遠い日のことを思い出した。


『お姉様が、お姉様のせいよっ!姉様のせいでみんな死んだのよ!!』


 フリカは姉を見つけ、兄が止めるのも聞かず叫んだ。あの事態を納得できなかった。

 自分たちが育ったエルフの村、近隣の人間の村、それらを襲ったのは、姉が愛した魔族の男だった。正式な結婚ではなかったけれど、姉は男と永遠を近い、村を去ったはずだった。だが姉のすべてを、男は奪った。奪おうとした。


『・・・』

 

 姉は、欠片の反論もしなかった。ただただ今のアリスと同じ表情で紫色の瞳を見ひらき、呆然とした面持ちだった。真っ白な顔で、色を失った唇で言葉を失っていた。


 フリカは姉が愛した魔族の男を何度か見たことがあった。


 姉は、男は安全だと、その魔族の男を信じ切っていた。その男が些末な理由でエルフや人間の村を襲うなど、想像したこともなかっただろう。

 姉は無垢で、なにも知らなかった。


『ど、どうして』

「ど、どうして」


 高い声音が記憶と現実をつなげる。


「フリカお母様っ!」


 アリスが母親である自分を呼んでいる。それで、フリカは失血で霞む視界をはっきりさせるために奥歯をかみしめた。

 人類が描く、丸い魔術の構造式のなかに、男がいる。

 中途半端な長さの金色の髪に、明るい翡翠の瞳、精悍な顔立ちを、姉はとても綺麗だと笑っていた。女性としては百五十センチほどしかなく、小柄で、だから男のことを百九十センチを優に超えるその身長を、ちんちくりんの自分とは違って羨ましいと笑っていた。

 姉がその人生をかけて、愛した男、フリカの父母を、村のエルフたちを、殺した男。フリカの家族を、壊した男。


「・・・ファールバウティ!」


 フリカは男の名を叫んだ。

 白銀の檻の向こうにいる男は周囲の魔術を破壊するか解除するために翡翠の瞳をめぐらせる。心を乱さない冷静な動作に、男が人間ではなく感情の起伏に乏しい魔族であることを、フリカは再認識する。


「ふっ、防御魔術が破壊されるのを待っていたの」


 魔王や将軍と言った上位の魔族は、必ず自分の周囲に強固な防御魔術を持つか、強固な肉体それ自体で自らを守る。それを打ち破らねば、いかなる魔術も攻撃も意味をなさない。だから、フリカは待っていた。望んだ。

 ファールバウティの防御魔術も、強固な肉体も、打ち破れる存在を。


「今度こそ、紫の娘は渡さないっ」


 フリカは男をまっすぐ見据えた。

 どうやらオーディンの魔力を纏う青銅の槍は、フリカの体をその防御魔術ごときちんと貫いてくれたようだ。座り込んだまま、頭のなかで広がる血を基軸に自分の周囲にも魔術の構造式を最後まで描く。兄がかけてくれていた防御魔術の魔力すらもすべて糧に、魔術の強度をあげる。


「ど、どうしてっ、フリカお母様!!」


 アリスがフリカのいる白銀の檻に駆け寄り、魔術に干渉しようとする。だが、そのアリスの細い体を後ろから手を回したビューレイストが阻んだ。


「だめだ」

「離してっ、離してよ!!」


 アリスがもがくが、人間と魔族の腕力の差は歴然だ。アリスは助けを求めるようにラウフェイを見る。だが、ラウフェイは首を横に振った。


「これが、フリカの願いだ」


 すべてはこのための仕込みだ。それを知るビューレイストとラウフェイは、フリカの魔術の邪魔はしない。むしろフリカの魔術がきちんと効果を得るまでの時間を稼ぐために、フリカの周囲にはふたりの防御魔術が作られている。

 白銀の檻に魔族が入ることはできないが、それでも念には念を、だ。


「っ、どういうつもり?」


 ファールバウティが自分にまとわりつき離れない緋色の魔術に細い眉を寄せる。


「これは血の呪い、命をかけた呪いよ」


 フリカはファールバウティに笑った。

 ファールバウティはフリカの血に連なる、たくさんのエルフを、人間を殺した。フリカの姉を独占するために、殺した。自分のために殺されたエルフと人間の山を目の当たりにした姉は、狂うしかなかった。狂った姉を、兄は眠りにつかせるしかなかった。

 それからもファールバウティはいなくなった姉を探し、多くの人を襲った。


「アリスは、バルドルは、絶対に貴方のものにしない。貴方に殺させない」


 フリカは自分を貫く青銅の槍を伝う血が滴るように、魔術の構造式を満たしていくのを感じる。魔力を吸って、命を吸って、この呪いは完成する。

 

「貴方がその身をどれだけ変えようと、おまえにめぐった私の血はおまえを忘れない」

「どういう意味だ」

「そのままの意味よ。おまえが、私の子供たちを手にかけられるとゆめゆめ思うな」


 ファールバウティの翡翠の瞳が、はじめて丸く見ひらかれる。


「この体と心は、オーディンにあげると決めた」


 フリカは妃になったときから、いや、彼が好きになったときから、この体と心はオーディンに捧げると決めている。その覚悟は、今も変わりはない。


「でも私はこの命で、家族を、子供たちを守るわ」


 家族を、子供たちを、フリカは守ると決めた。

 フリカはファールバウティの襲撃により一族を、住んでいた村の人々を皆殺しにされた。兄は戦いに身を投じ、姉は心を狂わせ眠りについた。フリカの家族はファールバウティのせいで壊れた。

 だからこそフリカは今度こそ、自分の作った家族を守る。

 母親として、最後の瞬間までその役割を果たすと心に決めたのだ。たとえこの命が潰えたとしても、フリカは必ず家族を守る。

 

「っ」


 ファールバウティの手が指先から変色し、崩壊する。それをファールバウティは表情のないその顔で、見つめる。


「・・・なんだ、これは」

「呪いだって言ったでしょ。私たちの血族に近づけば近づくほど、貴方の滅びは近くなる。つらいわよねぇ、目の前の恋い焦がれる人間に、触れられないなんて」


 フリカは笑った。まだフリカは生きている。呪いはいまだに中途半端なものだが、フリカの命が終わりを迎えるとともに、完成されるだろう。


「・・・苦しめ」


 簡単に死ぬなんて許さない。この記憶はアリスがいなくなると同時にファールバウティからも失われるだろう。だが、呪いは残され続ける。これからもファールバウティは人間とエルフの村を襲い続けようとするのかもしれない。


「苦しんで、苦しんで、姉様を思い出せばいいっ」


 ただフリカの血族に近づけば、面影を見つけて近づけば、体は少しずつ崩壊する。理解できない、訳がわからないはずだ。

 そして未来のその先にいるアリスに出会っても、苦しみ続けるはずだ。


「ルシアを、諦めろとでも言うのかい?」


 男の無表情が憎悪に歪む。


「血肉の味を、あの体を、忘れろとでも言うのかっ」


 忘れられないからこそ、探し求めているのだ。面影を求め、おかしくなるほど、狂うほどに失ってしまった少女を求めているのだ。

 ただそんなことフリカも知っている。


「あはははは!ざまぁみろ!」


 フリカは心から笑った。

 ファールバウティは姉を求め、同時に兄を恐れた。姉が魔族を愛したことも、兄が懸命に姉を止めたことも、フリカは幼すぎてなにもかかわることがなかった。ただただ慕う兄姉が喧嘩するのが嫌だっただけだった。子供だった。

 でも、自分だって家族を守りたかった。兄姉を、守りたかった。


『貴方もいつか自分で家族を作って、その家族を守りなさい』


 姉はよくフリカにそう笑った。きっと、ファールバウティにも言っただろう。

 実際に姉は魔族の男を選び、人間とエルフの穏やかに共存したあの里を捨て、覚悟を持って家族を作ろうとした。それでも結局、家族を作れなかった。そんな姉の思いも全部、フリカが、そしてフリカの子供たちが未来につれて行く。

 かつて姉が家族を作ろうとした魔族の男ファールバウティは、フリカの家族を邪魔をする存在だ。だから、フリカは命を賭けてでも彼を阻む。

 ここで阻んでおかねば、子供たちはまだいる敵に向き合えない。


「っ」


 ファールバウティはなんとか逃れようともがく。彼を囲んでいたフリカの丸い外縁を持つ魔術の構造式が消え、ファールバウティの転移の魔術が彼を囲む。逃げる気らしい。でももう呪いはファールバウティの体にまとわりついている。

 フリカの命を吸い込めば、終わりだ。


「諦めない、諦められない。ルシアは、」


 転移の魔術でファールバウティの姿がかき消える。するとビューレイストにその場に留められていたアリスが転がるように自分の白銀の杖を放り出し、フリカのいる白銀の檻に駆け込んでくる。


「お母様、おかあさまっ」


 アリスは白銀の檻を背に胸に槍が刺さったままフリカを見て、小さな手をわなわなと震わせた。


「・・・」


 もう、終わりだ。助からない。助かってはならない。助からないように槍で胸を貫いたのだ。

 アリスは大きな紫色の瞳に涙をため、愕然とした表情をした。それがあまりにあの日絶望した姉の表情に似すぎていて、フリカは首を横に振った。

 

「っ、ごめんね、・・・このために、私はアリスを呼んだの」


 フリカは運命を変えるという鏡の魔導具ノルンの泉によって召喚された。

 フリカが持っていた先見の力では、フリカはどう転んでも死ぬはずだった。それを理解していたから、フリカはなんとしてもこの自分の死を「意味のある死」に変えたかった。運命を変えたかったのだ。

 そしてノルンの泉が未来から呼び寄せたアリスには、フリカの無意味な死を、意味のある死に変える力があった。


「貴方の魔力砲が、私の運命を変える力だったの」


 アリスが打ち出す魔力砲。高圧縮の魔力を一方方向に打ち出す、まさに純粋な攻撃の神髄であるそれを、まねできる人間も魔族もいない。そもそもどれほど緻密な魔力制御を得意としても、高圧縮はできない。

 アリスはその力で将軍ヨルズがフリカとバルドルを襲撃したときには、ヨルズの防御魔術を叩き割った。いまだってそうだ。フリカがファールバウティを呪うには、彼の防御魔術を一瞬でいいから完全に粉砕する必要があった。それはアリスの力なしにはできなかった。

 ノルンの泉は、正しい相手を呼び出した。それがたとえ未来からだったとしても。

 

「・・・そ、そんな、わたし、わたしがいたから」


 アリスは自分の存在が、フリカを殺したように思えたのだろう。だが、フリカは違うと途切れていく呼吸とともに吐き出す。


「ちがうっ、ちがうのっ、あ、あなたが、あなたがいてくれた、から、」


 アリスが未来から来てくれなければ、フリカにはなんの選択肢もなかった。腫瘍にむしばまれた自分の体を抱え、ヨルズに殺されるか、ただただ死ぬかを選ばなければならなかった。仮にヨルズを避けたとしても、バルドルが生き残る未来はなかった。

 アリスがいたから、フリカとバルドルを殺そうとしていたヨルズを殺せた。ファールバウティはもう、フリカと同じ血筋に連なる者を殺すことはできない。あれはそういう呪いだ。穏健派で有数の将軍であるオーディンが唯一勝てないファールバウティに、バルドルを殺せないという鎖をかけることができた。

 フリカにとってアリスは無意味な死を覆す、まさに希望そのものだった。だが、アリスにとっては違う。

 フリカの願いのために未来から理不尽に連れてこられたアリスは、未来のオーディンやバルドルが悲しんでいるからと、フリカの運命を変えようとしてくれた。少しでも納得できる、幸せな終わりがないかと穏やかな子なのにオーディンと喧嘩し、必死で自分の知る未来を変えようとした。

 たしかに、アリスが未来から来たことは、アリスに一定のメリットをもたらすだろう。

 フリカの血に連なるのは、バルドルだけではない。従妹の娘であるアリスも同じだ。だからフリカがファールバウティにかけた呪いによって、固執した女と似ているからとアリスを付け狙うファールバウティは、未来永劫アリスに触れることはできない。それは未来にアリスが帰っても大きな意味がある。

 だが、それだけでアリスを利用し、悲しませるこの状況を贖えるだろうか。


「・・・ご、ごめん、ごめんね」

 

 目の前で大きな紫色の瞳に涙をいっぱいにため、泣くアリスにフリカは声を震わせて謝るしかなかった。

 

「ごめん、・・・わ、私には、私が選べる未来、は、これが最良のものなの、家族を、」


 守りたかったのだと言い訳しても、だめだ。

 フリカは口をつぐんで、一生懸命言葉を探す。でも、出てこない。家族のためにやったつもりだった。でも、娘は泣いている。自分の都合で娘に残酷な役割を課して、挙げ句の果てにこんなに泣かせて、なにをやっているのだろう。


「ごめ、泣かせ、て、わた、母おや失格、ね」


 思えば、せっかく娘にしたのに、母親らしいことはなにもしてやれなかったように思う。今さらこんなことを考えても無駄だとわかっている。でも、心残りが多すぎる。


『お母様?』

 

 最期に見たバルドルは、琥珀色の瞳を見ひらき、呆然としていた。フリカは息子のバルドルとオーディンを見ると決意がゆらぐからと結界内においてきたけれど、きっと傷ついているだろう。オーディンだってそうだ。


『フリカ!!』


 低くて鋭いその声が、好きだった。でも、最後に背中にかけられた彼の声は、悲痛に揺れていた。

 

『みんな悲しんでる、千年たっても、悲しんでるんだよ。わたし、わたしは・・・』

 

 アリスが話してくれた千年後のオーディンやバルドルの様子を思い出し、酷く胸が痛む。今さら、家族を不幸にしているのは自分ではないかと疑う。体の苦しさと手足が冷えていく感覚が、フリカの心を恐怖に陥れる。


「あぁ、・・・わ、私、なんて、こと、を」


 なんてことをしてしまったのだろうと、心が震える。

 もっと、もっと良い方法があったのかもしれない。でもフリカは弱くて、自分が死ぬとわかったときですらも、怖くてたまらなかった。途方に暮れるような気持ちを抱え、沈みきった自分の姿を自分の部屋の姿見で見たとき、思いだした。

 

『鏡がほしい?あー、なんか物置にあるな。でっかい姿見の魔導具。なんか運命を変えられるらしいが、起動できた話は数千年どころかまったく聞かねぇから、使って良いんじゃね?』


 白銀の美しい縁取りが為されたその姿見は、オーディンに無理矢理妃にされ、宮殿の一室に閉じ込められて日も浅かった頃、身繕いのために姿見がほしいと言ったフリカに、オーディンが与えたものだった。

 ノルンの泉の話を、遠い日に母から聞いたことがあった。

 もしかしたら自分の死を、変えられるかもしれない。最初はそう思って、ノルンの泉に触れた。でも、結局自分の死を変える未来の選択肢は、フリカの先見の力を持っても見つけられなかった。ただ、アリスに会えるとわかった。

 まさに希望だった。

 家族を守れる手段を手に入れたと思った。でもアリスにとって、家族にとってそれは不幸だったのだろうか。


「・・・」


 アリスが大きな紫色の瞳でフリカを映していた。涙をたたえて呆然と見開かれた目が何度か瞬かれ、ぐっと唇を噛んだ後に、表情が見えないほどに深く俯く。


「・・・お母様は、悪くない」


 引き結ばれた桜色の唇から、絞り出すような声が漏れた。そしてその唇が、柔らかな円を描く。


「フリカお母様は、温かくて、大好きな、わたしのお母様だよ。失格なんて、そんなことない」


 ゆっくりと小さな拳で目元を拭ったアリスは、落ち着いた様子で首を横に振る。


「わたしに家族を教えてくれて、お父様やバルドルお兄様、トールお兄様を残してくれて、ありがとう」


 小さな手がフリカの目尻にたまった涙を静かに拭う。手の温もりが落ちるとともに、フリカの目からまた涙がこぼれ落ちる。


「全部、全部お母様のおかげだよ。わたしはお母様に会えて、愛してもらえて、守ってもらえて、本当に、本当に幸せ」


 アリスの言葉が凍りついたフリカの心を柔らかに撫でる。


『温かくて、愛情深くて、口うるさくて、優しくて、わたしが想像していたとおりの、夢のようなお母様』


 アリスはすがりつくようにフリカに抱きついてそう言った。

 フリカの従妹の娘で、同族を大切にするエルフを母に持ちながら、アリスは親族と縁遠い娘だった。四歳で母親に捨てられ、人間に捨てられ、魔族に差し出されたアリスにとって、母親はまさにイメージだけの存在だっただろう。

 会えて幸せだったと笑ってくれる。その言葉が、後悔に打ちひしがれていたフリカの心を温めていく。


「今度はわたしが、お父様や、お兄様を、家族を守るよ」


 アリスが強く笑った。どこか幼げでいつも子供っぽいアリスの見せる強さに、フリカは目を細める。


「うん、あり、す、・・・可愛い、わたしのむすめ」


 フリカは頷いて、アリスが来てからの日々を思い出す。

 愛しいオーディンが不機嫌そうな顔をしていて、息子のバルドルと娘のアリスが笑って話している。アリスの伴侶であるビューレイストがアリスを見守っていて、彼の母親であるラウフェイも近くにいる。

 そんな家族の姿は、未来には続かない。でも、千年後にはきっと、千年後の家族のあり方がある。そしてそれをアリスが必ず守ってくれるだろう。

 連なるその血族とともに。


『フリカ』

『もう。フリカはいつも泣き虫なんだから、』


 兄と姉の、声が聞こえる。年の離れた兄と姉にいつも頼ってばかりで、幼いフリカは何もできなかった。あの遠い日も、罵ることはできても、兄と一緒に戦うことも、狼狽する姉に優しい言葉をかけることもできなかった。

 フリカは家族を守れなかった。姉の失敗を罵るだけで、守るという発想すらなかった。でも、もう違う。


「わた、し・・・がん、ばった?がんば、れた?こんど、こそ、家族を」


 最後の力を振り絞って、問いかける。すると遠い日の姉と同じ、亜麻色の髪に紫色の瞳の少女が、その瞳の色もわからなくなるほど涙をため、目を細め、穏やかに微笑んだ。


「うん、もういいんだよ、十分だよ。ありがとう」


 言葉とともに躊躇いがちに抱きしめられる。その温もりはもう体が冷たくて感じないけれど、心が温もりに満たされ、何もかもが遠くなる。

 心が、命がすべてほどけていく。後悔も何もかも、溶けていく。

 

「・・・うん、うん、」


 もう、大した声はでない。子供のように頷いて、フリカは目を閉じた。

 走馬灯のようになにかの映像が頭をよぎるけれど、それがなにか、フリカはもう認識できない。それでも最期に眼裏に浮かぶのは、愛しい面影だ。


『すごいっ。ここすごいわね。私、海って見たことなかったの』


 このフェンサリル宮殿に来たとき、はじめて海を見た。

 要塞都市クイクルムの支配下にあるエルフの村は山の中にあった。だから、フリカは海を見たことがなかった。

 だから日が沈むまで、一日中海を眺めていた。


『そんな、感動するようなもんか?』


 オーディンは不思議そうに首を傾げていた。でも、笑っていた。

 オーディンとともに、たくさんのものを見た。

 もともとオーディンはフリカを人間の支配領域に返す予定だったから、北にあるオーディンの領地から南に向かって旅をする道すがら、海を見た。たくさんの花を見た。はじめての動物も見た。なにもかもが初めてで楽しかった。幸せだった。


『バルドル!』


 息子、そう、息子だ。


『ほんとおまえ、バルドルに甘いよな』

『よく言うわよ。頬ずりしてたくせに』

『うっせぇな。気持ちいいだろ』


 抱いた重み、温もり、オーディンと同じ白銀の髪に自分とそっくりの顔、琥珀色の瞳、愛おしくてたまらなかった。宝物のようだった。


『アリス』


 自分と同じ亜麻色のお下げの娘。姉と同じ紫色の瞳の娘。


『フリカお母様、大好き』


 甘えたで不精者でどうしようもない、心配しか出てこない娘だ。

 そんな娘に、夢を託した。自分と同じ立場にある愛おしい娘に、姉も自分もできなかった夢を、託したのだ。ただただ愛したかった。愛おしかったのに、大きな重荷を負わせてしまった。

 そう、愛おしかった。なにもかも、彼といたから、いられたからだ。


『本当に、仕方ねぇな』


 嘆きと悲しみしかない暗い夜のなかで躊躇いがちに背を撫でる温かくも大きな手を、覚えている。


『大丈夫だ、』


 夜に溶ける淡くも低い声を、思い出す。

 伝えたい言葉が、ふと頭によぎる。息子にも、娘にも言ったのに、一度も面と向かって彼に言ったことはない。でも、もう良いだろう。何度も夢の中で繰り返した。だから、言の葉がもはや力を失った唇にも簡単に乗る。


「オーでぃ、・・・あいして」

 

 その言葉だけを残して、フリカはもうなにもわからなくなった。それが死だと認識することすらない、まさに穏やかな死だった。


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