30.アリス
「やぁ、ルシア」
フリカの部屋にいた男は、エトヴァスと、未来のビューレイストとそっくりの無表情で、アリスではない誰かを求める。
その翡翠の瞳を眺め、アリスはぎゅっと白銀の杖を握りしめた。
「しつこいな。ファールバウティ。それだから逃げられたんじゃないか」
ラウフェイは顔色ひとつ変えず、金色の身の丈ほどの杖を取り出し、アリスを背に庇う。
「まったく。オーディンは他人を守るにはあまりに細かいことに気づかなすぎる」
ラウフェイがぼそりと呟いた。
それでアリスも広間の柱のひとつに僅かにオーディンのものではない魔術の気配がある。恐らく将軍のヨルズがフリカを襲撃したときに、魔王のファールバウティがこの部屋に出入りできるように、置き土産をしたのだ。
ただ今のファールバウティはかつての恋人ルシアに似ているアリスを狙っており、もうルシアの妹であるフリカには興味がないはずだ。なのに、どうしてフリカの部屋に現れたのだろう。アリスがいることを知っていたのだろうか。
アリスが部屋を確認して、破壊された白銀の鏡に気づいた。
「鏡は割った」
ファールバウティが僅かに口角を上げる。
アリスを未来から呼び出した運命を変える鏡の魔導具「ノルンの泉」を破壊し、アリスを未来に帰れなくしたのだ。
「おまえはもう戻れない。ここで生きていくしかない」
冷たい声に現実を突きつけられ、動揺で心臓がばくばくと波打つような心地がする。だが、アリスの動揺を平坦な声音が押しとどめる。
「アリス、落ち着け。大丈夫だ」
ラウフェイの声音はビューレイストとは違う。けれどその速度や平坦さが彼を思い起こさせ、アリスの揺れる気持ちを急速に静める。
「・・・うん」
アリスは大きく深呼吸し、ファールバウティに向き直る。もともと勝ち目のない相手だ。心乱して判断力を欠いていては、隙すら狙えない。
「さてあらためて言おうか。ルシア」
ファールバウティはラウフェイなど見えないかのように、まっすぐアリスをその翡翠の瞳で見据える。
「来い、」
アリスしか映さない。他の者など何の関心もない。すべてを切り捨てアリスだけを映す翡翠の瞳。それは彼の息子であるビューレイストも、未来のビューレイストであるエトヴァスも同じだ。
だが、ファールバウティの瞳はアリスなど見ていない。かつての愛した自分の恋人を求めている。そして彼はこれからアリスに会うまでも千年以上、その身を滅ぼされて、体を変えてもさまよい続けるのだろう。
それを哀れに思う。だが、アリスは負けられない。胸を張り、アリスも彼から目を離さない。
「俺は過激派出身の魔王だ。貴様の処遇ひとつで、穏健派の有力なふたりの将軍ラウフェイとオーディンは俺にたてつく。それが何を意味するのか、わかっているだろう?」
この世界にアリスが残るのであれば、大きな争いの種になるだろう。
アリスは穏健派の将軍オーディンの娘であり、手を出す者は許さないと表明している。同じくラウフェイもまた自分の息子の嫁としてアリスを守る。ある意味で穏健派のふたりをつなぐ存在だ。そのアリスを過激派の魔王ファールバウティが欲するのだ。争いごとにならないはずがない。
穏健派と過激派の争いは将軍同士の、そして魔族の支配領域全体の対立を引き起こすだろう。ファールバウティは自分とこればそれは回避されると言っているのだ。
「・・・」
感情を度外視すれば、アリスがファールバウティのもとに行けば、すべては回避されそうだ。
ただアリスは父であるオーディンを思い出す。仮にアリスがファールバウティのところに行ったとしても、あの激しやすく短気な父が納得するはずもない。
それはアリスが納得してファールバウティについて行くことがないと確信しているからだ。ラウフェイも莫大な魔力を持ち優秀な子供を産む器であるアリスを、自分の息子たちと番わせることを諦めるとは思えない。
ましてやアリスを食糧にしているビューレイストは、アリスが他者の食糧になるくらいならアリスを殺すだろう。
ファールバウティは状況が変われば答えが変わると思ったのかも知れない。この間までアリスはいつでも未来に帰れた。だからファールバウティから逃げ切れると考えて強く出たと、ファールバウティは思っていたのかも知れない。
「答えは変わらないよ。わたしが生きられるのは、ビューレイストの隣だけ」
争いの種になろうとなんだろうと、アリスはそれに全力を尽くす。その先が死であるのなら、それはそれで仕方がない。
ただ死は、限界まで努力したその先にある。まだそのときではない。
「わたしは、誰であろうと屈さない」
魔王であってもアリスは負けない。ビューレイストの隣に並ぶと決めたときから、彼が誰にもひるまないように、アリスもそうでなければならないと思った。
だから、決して退いたりしない。
「結局、力尽くか」
ファールバウティはこめかみを押さえ、ふうっと息を吐く。そして長い右手を宙に突き出した。
ほどなくそこ握られるのは、あまりに大きな剣だ。銀色の刀身に赤い宝石が光っていて、十メートルほどあるだろうか。アリスはその剣を未来の世界でエルフであるヴァラの屋敷で見かけたことがあった。
『なにあれ、』
『先代魔王の剣、』
未来のビューレイストは素っ気なくそう言っていたが、あれはファールバウティの持ち物だったのだろう。アリスはそれを見たとき、あまりの大きさに持ち上げ、振るえる生きものを想像できなかったが、魔族の腕力は人間の比ではない。
ファールバウティは片手で軽々とそれを持ち上げる。
「役者はそろっていないんだがな。ビューレイストは失敗したのか?」
ラウフェイが腕を組んで、ふっと息を吐く。だがそれに呼応するようなタイミングで、転移の魔術が現れた。
「遅いぞ」
「オーディンとバルドルの隙が掴みづらかった」
ラウフェイの短い叱責に、ビューレイストが淡々と答える。ただアリスはビューレイストの小脇に、オーディンの武器である青銅の槍とともに抱えられている女性に、目を丸くした。
「ラウフェイ。あんまりビューレイストを怒らないであげて。別れを言う時間をくれたのよ」
フリカはビューレイストに支えられて立ち上がると、近くにあった白銀の檻へと足を運ぶ。ビューレイストはフリカなど興味もないのか、ついでとでも言うように青銅の槍を白銀の檻の中に放り込んだ。
「・・・フリカお母様?」
「ここのなかの方が、安全だもの」
フリカが笑った気がした。白銀の檻は魔族が入れない。そういう魔導具だ。アリスもいざとなればそこに逃げ込むことになるだろう。だが、彼女は言いながらもアリスの方を振り返らない。それに違和感を覚えながらも、アリスは目の前の敵に向き直る。
「仕方あるまいな。オーディンが来るまでに、ラウフェイかビューレイストを始末しておくか」
ファールバウティは剣を振り上げる。
あれほど大きな剣であれば小回りはきかない。懐に入ればどうにかなるだろう。だが、魔族の腕力を考慮すれば、あの大きさの剣でも高速で振るはずだ。あの大きさなら、ある程度、長距離の攻撃手段にもなる。もし剣の攻撃を避けて懐に入っても強固な防御魔術がある。
アリスは冷静に自分の魔力探知でファールバウティを分析し、その強さにごくりと唾を飲み込んだ。
将軍ヨルズの場合はアリス自身が長距離が得意であるため、近距離戦闘に特化されたヨルズを室内で相手にするという点に、相性の悪さを感じ、恐怖した。だが、魔王ファールバウティは自分の手札を明かしていない今の時点で、アリスから見て非常に隙のない、バランスのとれた戦闘能力の男だった。
「アリス、いけるな」
ビューレイストが左手に自分の二倍はある金色の剣を携え、アリスに確認してくる。静かな翡翠の瞳はまっすぐアリスだけに向けられていて、アリスの不安や恐怖をいつも確認する。感情の起伏に乏しい彼には自分のものとしては理解できないはずのアリスの感情を、いつも慮る。
だから、アリスは彼と行く。
「うん」
アリスは頷いて、ビューレイストとラウフェイを盾に、ファールバウティの視線から隠れる。そして魔力制御とフリカに与えられた姿を透明にするキュゲスの指輪で、気配を消す。これで魔力制御の得意なアリスを、ファールバウティであっても魔力探知で探すことはできない。
これでアリスが探知されるのは、アリスの魔力砲を打ち出すその瞬間だけだろう。
「ふむ」
ラウフェイが小さく頷き、金色の杖をファールバウティに向ける。黒色の炎が魔術によって生み出され、ファールバウティを包む。だがそれは剣の一閃で退けられた。だがその隙に、ビューレイストが金色の剣を構え、懐に入った。
アリスは白銀の杖の上部についた菱形の緑色の石を、ファールバウティに向け、チャンスを待つ。
「・・・」
金色の剣をファールバウティの防御魔術が阻んだ。ただ予想していたのか、ビューレイストの顔色は変わらない。ファールバウティの剣が近いビューレイストを捕らえようと振り下ろされる。ただその前に、ぴしりとファールバウティの防御魔術にひびが入った。
先ほどのラウフェイの黒色の炎は退けられたが消えきっておらず、混じっていた白い炎が刃となって防御魔術にとりついたのだ。ファールバウティは剣を持っていない左手を突き出し、防御魔術を補修する。ただ一瞬、ファールバウティの動きが止まればビューレイストの剣が巨大なファールバウティの剣を受け止めた。
アリスは静かに意識を集中させる。
アリスが打ち出す魔力砲はただの魔力を高圧縮しただけの塊で、純粋な物理攻撃そのものだ。アリスは以前、この魔力砲を白銀の杖に作られた魔力を通すための幾重もの細い経路のひとつに圧縮して通すことで打ち出していた。
この攻撃はあらゆる防御魔術や強化された肉体を貫く。ただ杖を通して圧縮するという形質上、魔力を通す経路を増やして威力を上げることはできても、一度に一発しか撃てなかった。それでは不足だ。それでは一瞬にしてファールバウティの防御魔術を粉砕し、ファールバウティの急所に深手を負わせることはできない。
だが、深手を負わせなければ、魔力があれば急所であれ再生できる魔族だ。下手をすれば魔力砲を打つ瞬間にファールバウティに探知され、アリスの方が撃墜される可能性がある。
魔術はある程度イメージだ。だからアリスは一発の魔力砲は杖を通しつつ、残りの五発をイメージだけで形成する。
そして、それを打ち出した。
六発の魔力砲が両手の塞がったファールバウティを打ち抜く。防御魔術を粉砕され、胸や頭に、足にぽっかりと穴の開いたファールバウティの体がぐらりと傾ぐ。だが、ビューレイストが飛び退いてファールバウティから距離を取った。半分ちぎれたファールバウティの腕が剣を振り下ろしたからだ。
急速にファールバウティの体にあいた穴が再生していく。
「・・・」
アリスは上位の魔族の再生速度に、大きく目を見張りその光景を眺める。ラウフェイが杖を構え追撃を加えようとして、手を止めた。
不自然な手の止め方に、アリスは彼女の行動を訝しむ。
「・・・え?」
アリスの小さな戸惑いの声が、広間に響き渡る。
真っ赤な血が、防御魔術を粉砕されたファールバウティの体にまとわりつく。同時に円形の魔術がファールバウティに現れ、取り囲んでいく。
魔族と人類では魔術体系が違う。
魔族の魔術は外縁が三角、人類の魔術は外縁が円形であると言うのは、未来でビューレイストから魔術の基礎を教えられたときに、最初に説明された。ここで戦っているのは、アリス以外全員魔族だ。ここは魔族の支配領域の最北端で、人間などほとんどいない。
しかもアリスはその魔術の構造式と似た構造式を持つ結界を、見たことがあった。
「ヘルブリンディさん、の、」
ビューレイストの末の弟ヘルブリンディの人間の妃が、息子を守るために命を賭けて張った結界の構造式だ。人間の命まで魔力ごと構造式に組み込み、それを対価に法外な効果を得る魔術の構造式に、アリスは喉が詰まるのを感じた。
「フリカお母様っ?」
アリスは後ろを振り返り、白銀の檻のなかにいるはずの女性を振り返る。そして愕然とするしかなかった。
美しい鳥を閉じ込めたその鳥籠は真っ赤に染まっていた。




