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バッハのコンチェルト

 トーマイヤーが体育館の陰から出て、芸術館へと続く渡り廊下に入っていくと。

「あれー? トーマくん」

 リユナが校舎の方向から走ってきたところだった。

「大急ぎで、掃除終わらせて来たんだぁ。まだ行ってなかったんだ?」

「ああ、ちょっと道に迷ってしまってね」

「なんだぁ~、じゃあ、いっしょに行きましょ!」

 いつもの練習場所である演奏会用ホールの舞台へ、裏手のドアを開けて入った。今日は演奏会ではないので、反響版も下りていないし、舞台袖と舞台裏が一体となって舞台の上は広い。もう部員の大半が集まって音出しを始めている。

 上手側からリユナが入っていくと、ヴァイオリンを手にしたサユカがいた。

「あ、リユナさん、来ましたわね?」

「うわっちゃ、サユカ……」

「リユナさん、昨日はよくも、まんまと逃げおおせてくれましたわね。ところで、オケ部のカードは……ッ!」

 サユカは、リユナの後ろからついてきたトーマイヤーを一目見るなり、絶句して立ち尽くした。ヴァイオリンを持つ手から力が抜けて、支えを失ったヴァイオリンはその手をすべり落ち、床に叩きつけられて大きな音を出した。

「ちょ、サユカ! 傷がついちゃうじゃない! ……って、あれ?」

 慌てて床に落ちたヴァイオリンを拾い上げたリユナだったが、当のサユカは。

「……」

 トーマイヤーに目が釘付けになってしまっていた。その大きな瞳は、今にも涙ぐまんばかりにうるんでいる。

「な……なんてお美しい……なんと高貴な……麗しいお方でしょう……ああ……あなたはいったい……」

「ぼくは、トーマイヤーと申す。今日、転校してきたばかりであるぞ」

「まあ、転校なさって……ああ、その全身を包む気高いオーラ、きっと、よほど高貴なお生まれなのでしょうね……」

「ぼくは、隣国であるテレスタルの王子だ」

「まああああ! 王子様!! なんということでしょう! これは運命だわ。運命が、このわたくしと、あなた様をお引き合わせくださったのに、違いありませんことよ! ああ……」

「おーい、サユカー」

 リユナが、サユカの目の前で手を振ってみせた。

「邪魔ですことよッ!」

「ぐげっ!?」

 サユカが、リユナをグーで殴った。ヴァイオリンを持ったまま、床に派手に転倒するリユナ。

 サユカはすぐに、とろん、とした目つきに戻って、

「トーマイヤー様とおっしゃいますの。まあなんと素敵なお名前ですこと。こちらへいらしたということは、わがオーケストラ部へ入部なさる、ということですわね。大歓迎いたしますわ!」

 そして、床に這いつくばっているリユナの方へ心配そうな視線を投げかけているトーマイヤーの腕をつかんで、

「そんな野猿は放っておいて、あちらへ参りましょう。楽器はなにを? まあ、ヴァイオリン、おほほほほ、わたくしと一緒ですわね! ささ、ヴァイオリンはあちらでしてよ」

 さっさとトーマイヤーを連れて、ヴァイオリンプルトの方へと行ってしまった。

「いてててて。サユカのヤツぅ~」

 殴られた頬を抑えながら、リユナが起き上がる。横から、くっくっくっ、と笑う声がする。

 椅子に腰かけてチェロを構えている、すらりとした長身の秀才シューヤだった。

「ぶうー」

 リユナがむくれてみせる。そこへ突然、電光石火の素早さでサユカがすっ飛んできて、

「リユナさん、わたくしのヴァイオリンをお返しあそばせ」

 リユナからヴァイオリンをひったくって、すぐに引き返していった。

「トーマイヤー様ぁ~」

 それを唖然として見送るリユナ。そしてまだクスクス笑っている、シューヤ。すると、小柄でセミロングのストレートヘアー、前髪をきっちり切りそろえたおとなしそうな女子がすっ、とリユナのそばに近づいてきた。

「リユナ先輩、楽器持ってきておきましたよ」

「え? あっ、コアちゃん、ありがとう!」

 ひとつ下の一年生、コアだった。楽器は通常、鍵の掛かるロッカー部屋に保管されているのだ。コアは、その小柄な体格にも関わらず、なぜかヴィオラを希望して入部してきた珍しい新入部員である。

 リユナが楽器を受け取って、ヴィオラの第一プルトに座ると、舞台の下手側から顧問の先生が入ってきた。

「おうー、みんな揃ってるかあー?」

「あ、バッハイシバシが来た」

 バッハイシバシは、顧問のあだ名である。背中まで長く伸ばした髪が見事な白髪で、しかもソバージュヘアーよろしく縮れている。まるで昔の作曲家の誰かみたいだった。もっとも、その風貌はバッハというよりは、どちらかというとヴィヴァルディ風だったのだが。

「先っ生~♪」

 妙に芝居がかって甘ったるい声で、サユカが言った。

「なんだ、お嬢様?」

「こちら、新入部員のトーマイヤー様ですわ!」

「お初に御目に掛かります、先生」

「おう、今日転校してきたっていう、王子様だな。話は聞いてるよ。なんでも、えらく豪勢なご昼食を召し上がったそうだな!」

「そんな、普段通りのランチですよ」

 あれが普段通りかよ、とリユナは心の中でつっこんだ。

「明日からは、皆の者と同じようにお弁当を持参いたします」

「まあ! トーマイヤー様が、お弁当をお持ちになりますの? なんでしたら、わたくしが作って差し上げますのに。腕によりをかけて、愛情をたっぷり込め……」

「いや、そのような気遣いは無用だ」

 トーマイヤーが、ばっさりきっぱりと断った。言いかけて、引っ込みがつかなくなったサユカは、ぐっ、と詰まってしばし硬直した。バッハイシバシが話を続ける。

「王子様は、楽器は持ってきてないな? おーい、予備のヴァイオリンを持ってきてくれ」

 オケ部所有の楽器を、ロッカー部屋に一番近い部員が取りに行く。すぐに一挺のヴァイオリンを手にして戻ってきた。

「王子様には安物で申し訳ないが、とりあえず今日のところはこれで我慢しておいてくれ」

「そんな、どんな楽器でもぜんぜん構いませんよ。むしろお貸しいただき、感謝します」

 丁寧に、優雅な仕草で会釈してみせる。サユカが、ひとりでキュン、とした。

 トーマイヤーは安物のヴァイオリンを受け取ると、試し弾きをした。

 ……ゆったりとした、息の長い旋律が流れ始める。『タイスの瞑想曲』の出だしだった。

 冴え冴えとした黄金色をした音が、ホールに響き渡る。

 ヴァイオリンのような楽器の場合、楽器の良し悪しが演奏の良し悪しをも決めてしまう、というのは事実である。しかしながら、楽器ではなく演奏者によっても音色の良し悪しが大きく左右されてしまう、というのもまた動かしがたい事実であった。

 安物の楽器であっても、トーマイヤーが弾くと実に深く心に響く、美しい音色が出た。

 おお、とオケ部の誰もが嘆息を漏らした。バッハイシバシも、「ほう」と感心したように見ている。リユナも、聴きながら思った。

(ふわ~……トーマくん、すご~い……なんて素敵な音色なのかしら……)

 言うまでもなく、サユカなどはすっかり目がハートになって、演奏するトーマイヤーにうっとりと見惚れている。

 そしてとりあえず一九小節ほど弾いたところで、トーマイヤーは弾き止めた。始めはパラパラと、やがて全員が、われ知らず拍手を送らずにはいられなかった。

 トーマイヤーが拍手に応えて、優雅に一礼すると、バッハイシバシが言った。

「王子様はとりあえず、ファーストのそこ、コンマスの隣りに座ってくれ。よし、それじゃあいつも通り、バッハの第一番からいくぞ」

 バッハイシバシが示した、ファーストヴァイオリンの第一プルト、コンサートマスターの隣りの席は、いつもはサユカが座っている席だった。サユカは満面の笑みでトーマイヤーに席を譲ると、指揮台の上に立っているバッハイシバシの隣りまで出ていった。トーマイヤーが席に着き、譜面台の上を見ると、そこにはA3サイズと大き目のタブレット型端末が載せられていた。楽譜は全て、その端末の画面に表示される仕組みになっていた。しかも、周囲に流れている音を勝手に聞き取って、自動的に楽譜が進行してくれる、という優れものである。表示されている楽譜は、バッハ作曲のヴァイオリン協奏曲第1番イ短調BWV1041だった。どうやら、サユカが独奏ヴァイオリンを受け持つらしい。

 バッハイシバシは指揮をするのか、と思いきや、舞台から下りて客席に座ってしまった。サユカに独奏だけでなく指揮までも任せて――つまり、弾き振りである――、自分は見物を決め込むつもりのようだ。

 サユカが得意げな表情で、つん、とあごをそびやかしてヴァイオリンを構えた。そして右手に持った弓をすい、と高く挙げて、皆の注意をひく。オケ全体に、さっ、と緊張が走る。

 ほんの1~2秒程度だけ、集中力を高める沈黙があった後、サユカは速めのテンポで歯切れよく、リズミカルに弾きはじめた。弾き振りでは、独奏者が全体のテンポも、音楽的な表情もすべて決めることになる。サユカのテンポは、かなり速めできびきびとしたものだった。まだ楽器に触り始めていくらも経たない素人も交じっている合奏団には、ついて行くのがやっと、という者もいた。もちろん、第一プルトに座っているのは、それなりに実力のある者だったから、独奏に後れをとるということはなかったものの、後ろの方にはいまにも脱落しそうになっている者も何名かはいたのである。

 ただし、トップのリユナを含め、あまり高度な実力を持つ者がいないヴィオラパートは、全体が今にも遅れそうになっていた。

(う~、相変わらず、サユカのテンポはキツいわぁ……)

 サユカの演奏は、よくそのテンポで正確に弾けるものだ、と思わせる、圧倒的なスピード感で己れのテクニックの完璧さを披歴するような解釈であった。一人でオケ全体を振り回しているような。もっとも、そこが刺激的だ、と見ることも可能であっただろう。

 そして第一楽章の最後まで、演奏し終えた。まるで一陣の風が吹き抜けたかのような、颯爽とした、快活な演奏ではあった。

 バッハイシバシが客席から、拍手しながら舞台の上に戻ってきた。

「お嬢様、今日も冴えてるな」

「先生。当然ですわ」

 サユカは、ちら、とトーマイヤーの方を見た。自分の演奏に絶対的な自信を持ち、自分に見惚れてくれたことを確認するかのような視線だった。

 だが。

「先生!」

 トーマイヤーが、突然、立ち上がって発言を求めた。

「ん、なんだ、王子様?」

「サユカ殿の演奏は、確かに素晴らしいものでした。ですが、ぼくの解釈は、また異なります」

「ほほう。解釈が違う、と言うのか。面白い。よしっ! じゃ、今度は王子様のソロでやってみようじゃないか!」

「えええっ!?」

 サユカがびっくりして目を剥く。自分の演奏は完璧だったはずなのに……とでも言いたげに。

 そして、今度はトーマイヤーが前へ出て独奏者の位置へ行き、サユカは不承不承といった顔でコンマスの隣に座った。バッハイシバシが、なんだか楽しそうに客席へ下りて行く。

 トーマイヤーは一度、振り返ってオケ全体を見渡してから、そしてコンマス(これは三年生が担当していた)にアイコンタクトを送って、そして客席の方へ向いた。

 一秒、二秒、三秒。

 息を詰めて、長めに集中力を高める。全員が、固唾をのんでトーマイヤーの出方を待った。

 急に、ぎんっ、と目を見開いて、トーマイヤーが弓を一気にヴァイオリンの弦に当て、最初の音を弾きだした!

 意外にも、そのテンポは遅めの、落ち着いたものだった。オケの後ろの方にいる者にも、弾きやすい。しかし、ただ遅いだけではなかった。

 一音一音に、この曲の持つ、イ短調の哀切さが込められていた。バッハの音楽に特有の、厳粛で、どことなく古風な厳めしい構成の中から、不思議に漂い流れ出してくる悲哀に満ちた情感。切々と語りかける、ヴァイオリンのソロ・パート。そして言葉では語りつくせぬような、誠に精妙極まる、和声の色彩が細やかに変化してゆくその美しさ。

 バッハイシバシも、思わず、我を忘れて聞き惚れてしまわずにはいられなかった。

 しかも、それだけ豊かな情感あふれる表現をしながらも、決して独りよがりにはならず、オケ全体に対する気遣いまで見せ、テンポの取り方、フレーズの区切り、つなぎ方まで実に見事にさばいてみせる。ヴィオラのトップにいるリユナも、弾きながら考えるゆとりがあった。

(うわぁ、弾きやすい。すごい……ソロを弾きながら、わたしたちに送る合図も分かりやすいわ……それに、なんて悲しくて切ない演奏なのかしら……弾きながら涙が出そう)

 サユカの、わたしについてこい、式の演奏とは、まったく正反対の、対極に位置するような演奏であった。どちらも、華麗で人目を惹く、という点に関してだけは、共通していたとも言えたのだが。

 そして、第一楽章の最後の一音を、たっぷりと伸ばして終止した。

 バッハイシバシは、拍手をするのも忘れて、あまりの素晴らしさに呆然自失としていたが、やがて我に返って、ぱらぱらっ、と拍手した。そして、舞台に上ってきた。

「……実に、素晴らしかった。いや、まさにバッハの演奏とは、こうあるべきだ、という手本のような……いいや、手本以上の、それこそ真の芸術と呼んで差支えないような……」

「先生、そんな過分なお言葉をいただくほどのものではありません。ぼくはただ、王宮付き楽団のマエストロから、習っただけなのです」

「では、その指導が良かったのだな!」

 感激するバッハイシバシを横目で見ながら、しかしサユカは複雑な心境だった。

 確かに、トーマイヤーの演奏は素晴らしかった。だが、自分の演奏が、それより劣るとは、思えない。思いたくない……この曲に関しては、自分が一番だったはず。

「お嬢様の、旋風のような演奏も刺激的だが、王子様のような抒情性あふれる深い解釈に触れてしまうとなあ……」

 バッハイシバシは、考え込む風だった。

「お嬢様には悪いが、この曲のソロは、王子様でいこうかと思うんだが!」

 バッハイシバシが、いきなり決断を下した。

 誰もが、無言で頷く中、サユカだけが「えーっ!?」という顔になった。

(そ、そんな……このわたくしが……た、確かにトーマイヤー様は素晴らしかったですけど……しかし、このわたくしが負けるなどと……)

 サユカが、白目をむいて首をがくっ、と後ろへ倒しこんだ。

「はは、お嬢様には、また別な見せ場を考えてやるから」

 バッハイシバシが、サユカをなだめるように声を掛けた。だが、サユカは白目をむいて椅子にもたれかかったままだった。

 チェロの席に座っているシューヤが、独り言のようにぼそりとつぶやいた。

「なるほど。音色の豊かさで人を魅了するだけにとどまらず、オケ全体をも見事にマネジメントしてみせる……生まれながらに人の上に立つとは、こういうことか……」

 そんなシューヤの独り言を、リユナの後ろに座っているコアが、しきりにうんうん、と頷きながら聞いていた。

 リユナはたった今のトーマイヤーの演奏に、ぽーっと浸り込んでいた。

「よーっし、そんじゃ次は、モーツァルトのシンフォニー行くかー。管楽器、出番がなくてすまなかったな」

 バッハの協奏曲には、管楽器が入っていない。そのため、管楽器担当はその間、ずっと休んでいなければならない。管楽器の出番が少ないオーケストラ部は、管楽器奏者にはあまり人気がなく、優れた人材はみんな吹奏楽部に流れてしまうのが、バッハイシバシの悩みの種だった。


 そして練習も一通り終わり。

 サユカは、自分がバッハのソロから降ろされた衝撃からはたちどころに恢復して、トーマイヤーにしきりと何か話しかけながら、校門を出てゆく。

 それを後ろから、不満げな眼差しで睨みつつ歩いて行くリユナ。トナが横から、心配そうな、それでいてどこか面白がるような視線を投げかけていた。

 校門の外には、無駄に車体が長く大仰な黒塗りのリムジンと、それから流線型で洗練されたフォルムの洒落た銀色をした高級自動車――テレスタルの王族送迎専用車である――が停車していた。大仰なリムジンはサユカを、洒落たデザインの王族専用車はトーマイヤーをそれぞれ車中へ招き入れると、どちらも悠然と走り去って行った。

 それを見送って、リユナがちょっと肩を落とした。

「はあ~。そうだよなー、トーマくんって、王子様だもんなー。あたしみたいな、ただの庶民じゃなあ……」

「そうかなー? そうでもないんじゃない。あんたのその性格なら、けっこう、イケるんじゃないかと、わたしは思うけど」

「そんなわけないじゃ~ん。あ~、どう考えても、サユカの方がお似合いだわよねー……」

 トナはそれ以上、追求はしなかった。

 友だち同士の会話をはずませながら二人は、駅へと続く坂道を下っていった。


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