九十四という数字
イレーネ・カストは、その報告書を三度読んだ。
クラン・アルゴノート第三次深層隊、第二十九階層にて装備破損、負傷者一名。カイ・レンドル、二十歳、銅級。左腕の骨折および腱の部分断裂。破損箇所は左籠手の留め鋲。
備考の欄には、事故直前の魔導鑑定盤による装備健全度は九十四、異常なし、と記されていた。
彼女はその一行をもう一度読んだ。
異常なし。九十四。
「イレーネさん、次の会議が」
「三分ください」
彼女は書庫の索引を繰って、二か月前に閉じられた整備房の記録を引き出した。カイ・レンドルの籠手。過去五年ぶんの点検簿を遡っていくと、最後の記録は四か月前で、担当者の欄にゲルト・ハウザーと書かれていた。
その下、備考の欄に、こうあった。
『左籠手・留め鋲部、応力集中の兆候あり。数値上は問題なし。使用者に左肩を庇う癖があるため、通常より早い時期での交換を推奨。次回潜行前に要交換』
イレーネはその一文を五度読んでから、日付を確かめた。四か月前だ。それから交換の記録を探したが、どこにもなかった。整備房は、この記録が書かれた二か月後に閉じられていた。
会議には出た。出たものの、中身はほとんど頭に入らなかった。
自分のやったことは正しかったはずなのだ。整備房二十三名の人件費は年に金貨千百枚、導入した鑑定盤の使用料は年に八十枚で、差額の千枚があれば深層隊をもう一隊出せる。実際に出したし、役員会でもそう説明して、誰も反対しなかった。数字は正しかった。
整備房からも、反対はなかった。
あの朝、彼女が割に合わなくてと言ったとき、二十三人は誰も何も言わなかった。ひとりも、何も言わなかった。あのとき彼女は正直なところ少しほっとしていて、抵抗されなくてよかったと思ったのだが、いまになってあれが何だったのか分からなくなっている。
その夜、誰もいない執務室で、彼女はゲルト・ハウザーの人事記録を開いた。
勤続二十年、整備士組合一等免状、登録番号一一〇。在職中の整備件数はおよそ十二万件。担当した装備における事故の発生件数は、ゼロ。
二十年で、ゼロだった。
イレーネはその欄をしばらく見つめていた。ゼロという数字は報告に上がってこないし、起きなかった事故は記録に残らない。彼女が費用を積み上げたとき、この欄は空白として処理されていて、空白だから価値がないと判断したのだ。
彼女は帳簿を閉じて、それからまた開いた。もう一度、あの備考の一文を読んだ。
『使用者に左肩を庇う癖があるため』
なぜこの人は、そんなことを知っていたのだろう。鑑定盤は九十四だと言った。この人は四か月前に、二十歳の若者が左肩を庇っていることに気づいていた。
「……何なの、この人」
誰もいない部屋で、イレーネ・カストはそう呟いた。
同じころ、迷宮第十七階層では、ゲルト・ハウザーが底の抜けた鍋を叩き出していた。二つ目である。同じ持ち主が、また抜いて持ってきたのだ。
「あんた、火が強すぎるんだよ。中火にしろ、中火に」
「でも早く焼きたくて」
「早く焼くと肉が固くなる。ボリスに訊け」
「はい」
ナットがボルトを一本くわえてきて、足元にことりと置いた。今日のはちょうど使う寸法だった。
「当たりだな」
キチ、と鳴いた。




