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背中に傷がない

ニナ・アルトの防具は、そろそろ限界だった。


 中古の中古で、しかも身体に合っていない。革の胴当てと脛当てと肩当ての三点だけで、留め具はほとんど別の防具から移植したものだ。そろそろ買い替えろと言ったら金がないと返ってきたので、じゃあ直すから持ってこいと言った。


 翌日、彼女は防具一式を抱えてきて、俺はそれを木箱に並べて、いつも通り端から順に見ていった。


 胴当ての前面には無数の打撃痕があって、左に寄っている。肩当ては右が削れている。脛当ては両方まんべんなく傷んでいる。そこまではよくある減り方で、彼女の癖と一致していた。


 最後に背中の当て革を裏返したところで、俺の手が止まった。


「……なんだこれは」


「え」


「傷がない」


「?」


 隅から隅までもう一度見た。地面に置いたときの擦れも、土の汚れもある。ただ、打撃を受けた跡がひとつもなかった。


「ニナ。君、迷宮に潜って何年になる」


「一年半、です」


「そのあいだに、後ろから襲われたことは」


「……ないです」


「一度も?」


「一度も」


 ニナは不思議そうな顔をしていて、自分が何を言われているのか分かっていない顔だった。


「なんでだと思う」


「えっと。運が、いいから」


「一年半続く運は、運とは言わない」


 俺は当て革を置いて、少し考えた。整備士は道具のことしか分からないし、人間のことは分からない。ただ、道具というのはその持ち主のことを実によく喋る。


「後ろから来るとき、どうやって気づいてる」


「……聞こえるので」


「何が」


「足音と、あと、床の砂がこう、ずれる音と。羽の音と、息の音と」


 ニナは指を折りながら数えていたが、数えるにつれて声がだんだん小さくなっていった。


「あの、みんな、聞こえてるものだと思ってました」


「聞こえてない」


「え」


「誰にも聞こえてない」


 前髪の下で、彼女の目が大きく開いた。


「君の技能は何だ」


「【聴耳】です。三等の、地味なやつで」


「三等は地味じゃない」


「でも、探索者向きじゃないって、加護の儀のとき役人の人が」


「その役人は迷宮に潜ったことがあるのか」


「……ないと思います」


 俺は珍しく、はっきりと腹を立てていた。


「ニナ。迷宮で人が死ぬ原因の一位を知ってるか」


「わかんないです」


「後ろからだよ」


 俺は木箱の上の当て革を指した。


「一位が背後からの奇襲、二位が上から、三位が味方の誤射だ。正面から来る敵で死ぬやつは、実のところそう多くない。それでも人が死に続けるのは、後ろが見えないからだ」


 ニナは自分の防具を見た。傷のない背中を見ていた。


「君は、一位で死なない」


「……」


「そういう人間を探索者が何と呼ぶか、知ってるか」


 彼女は首を振った。


「斥候だ。隊で一番先を歩いて、一番先に危険を見つける役をそう呼ぶ。銀級以上の隊はどこも、いい斥候を抱えてる。抱えられなかった隊から順に潰れていく」


 俺は当て革を裁ち直しながら、顔を上げずに言った。


「君は灰級じゃない」


 ニナは何も言わなかった。俺も顔を上げなかったが、床に水滴が二つ落ちるのだけは視界の端に見えたので、見なかったことにして革を縫った。



 三十分ほど、二人とも黙っていた。やがてニナが小さい声で切り出した。


「あの」


「うん」


「わたし、ずっと、何の役にも立たない子なんだと思ってて。学舎も辞めて、母さんの薬代があるから迷宮しかなくて、でも弱くて、槍も折って」


「うん」


「でも」


 そこで言葉が続かなくなったので、俺は縫い終わった当て革を差し出した。


「背中、直しといた。傷がないから直すところもなかったんだが、革を一枚厚くしといたよ。もし後ろから来ても、一発は耐える」


 ニナは防具を胸に抱えて頭を下げると、そのまましばらく上げなかった。



 その晩、ボリスが鍋の蓋を閉めながら言った。


「ゲルトさんよ。あんた、あの子を化け物にする気か」


「化け物?」


「斥候だなんだって焚きつけてよ」


「事実を言っただけだ」


「その事実ってやつが一番効くんだよ」


 ボリスは炭を寄せながら続けた。


「褒めるやつなら山ほどいる。だがな、事実で人を持ち上げるやつってのはいねえんだ。褒め言葉は嘘かもしれねえが、事実は嘘じゃねえからな」


 俺は湯呑みを持ったまましばらく黙っていた。そんなつもりで言ったわけではなくて、二十年やっていれば誰にでも分かることを、そのまま口に出しただけだ。このときの俺は、まだ本気でそう思っていた。


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