先生
噂というものは、下から上へ流れていく。
最初に来たのは灰級で、次に銅級が来て、それから銀級が来て、ヴォルフのような中堅クランが来た。店を開いてから二か月で、列は毎日五十人を超えるようになっていた。
さすがにひとりでは回らなくなったので、待っている連中に手伝わせることにした。研ぎの前の油落としと錆落としは、教えれば誰にでもできる。やり方を教えてみたところ、いちばん上手かったのがニナだった。手が丁寧なのと、砥石の音の変化を聞き分けられるからだ。
「ニナ。ここで音が変わったら止めろ」
「はい」
「聞こえるか」
「聞こえます」
「よし、じゃあ君に任せる」
こうして俺の店に三人の手伝いができた。ニナと、鍋の娘のアニカと、それから最初に来た斧の男のダンだ。給金は出せないので、代わりにボリスの飯を経費で出すことにした。ボリスは金はいらねえよと言ったが、俺は無視して払った。
その日の昼過ぎ、列がざわついた。
誰かが街から降りてきたばかりらしく、五、六人がその男を囲んで話を聞いている。声が切れ切れに漏れてきた。
「うそだろ」
「昨日の宴でか」
「本人が言ったんだよ」
俺は錆落としの手を止めなかった。迷宮の中で流行り物に反応していたらきりがない。
だが、次の一言で手が止まった。
「レイ・ヴァンダールが言ったんだ」
その名前はさすがに知っている。
レイ・ヴァンダール、二十四歳、宝玉級、大陸序列第三位。六年前にアルゴノートへ新人として入り、二十歳でクランを出て単独で立ち、そこから四年で大陸の三番目まで上がった女だ。
俺はその名前を知っている。名前だけではない。彼女が十九だったころ、俺は毎週その剣を整備していた。三年間だ。
「なんの宴だったんだ」
「引退した先輩剣士の追悼ですよ。ギルドの大広間でやってて、詩人が入ってたから、もう街中に回ってます」
「ふうん」
「それで質問が出たんです。装備の手入れはどこに任せてるんですかって」
列の連中が笑った。そりゃそうだろう。序列三位の装備に触れる整備士なんて大陸に十人もいないのだから、答えは決まっている。どこかの王家お抱えの工房に決まっているのだ。
男は覚えている限りを、なるべく正確に繰り返した。
――いまはクランの整備班にお願いしています。ただ正直に言うと、満足はしていません。
――わたし、十九のときに一年間、一度も装備が壊れなかったことがあるんです。そのときに手入れをしてくれていた人がいて。
――毎週、剣を渡すと、三秒くらい見て、それだけでわたしの動きの癖を全部言い当てるんですよ。昨日は右に回りすぎたな、とか。疲れてるだろ、寝ろ、とか。
――わたし、その人のことを先生と呼んでいました。
――独立するとき、何も言わずに出ていったんです。若かったから、恥ずかしくて。恩を認めるのが、なんだか負けみたいで。
――いまでもあれが、人生でいちばん後悔していることです。
そこで誰かが名前を訊いたのだと、男は言った。
「そしたら、言いませんって」
「言わない?」
「はい。言ったらみんな押しかけるでしょう、あの人はそういうのが嫌いな人なので、って。それから、笑って、こう言ったそうです」
男は少し息を吸ってから、続けた。
「もしどこかで聞いていたら、一言だけ言わせてください。先生、あのときのこと、ずっと謝りたかったです」
列が一斉に騒ぎ出して、誰だよその整備士、六年前のアルゴノートなら調べれば分かるだろ、やめとけ本人が言うなと言ってるんだから、といった声が飛び交っていた。
俺は手元の短剣を見てから、また錆落としを始めた。しゅ、しゅ、と、いつも通りの音がした。
隣でニナが手を止めて、じっとこちらを見ていた。この子は耳がいいから、俺の手が三十秒ほど止まっていたことに、たぶん気づいている。
「あの」
「なんだ」
「ゲルトさん」
「うん」
ニナは何か言いかけて、やめて、砥石に戻った。賢い子だ。
俺は錆を落としながら四層の岩猪のことを考えようとしたが、うまくいかなかった。
六年前、あいつは黙って出ていって、俺は追いかけなかった。当たり前だ。整備士が探索者を引き止めるなんて、そんな筋合いはどこにもない。俺は道具を直す人間であって、人間を直す人間ではないのだから。
ただ、あのとき一言だけ言っておけばよかったな、というのは、六年ずっと思っている。
――行ってこい、と。
その三日後、俺の店の列に赤い外套の女が並んでいるのを、ニナが見つけることになる。




