赤い外套
その日、俺は三つ目の鍋の底を叩き出していた。
持ち主はまたアニカで、これで三度目になる。火加減を直せと二度言ったのにまだ直っていないらしく、底の中央がきれいに薄くなっていた。
「あんた、俺の話を聞いてるか」
「聞いてます」
「聞いてないだろう」
「聞いてるんですけど、鍋の前に立つと忘れちゃって」
「そういうのを聞いてないと言うんだ」
当て金を持ち替えて、内側から少しずつ延ばしていく。鍋というのは案外面白い仕事で、叩けば叩いただけ素直に応えてくるし、失敗しても人が死なない。
この二か月で、俺はずいぶん鍋を叩いた。武器を持ってくる連中が、ついでにと言って鍋や湯沸かしや壊れた洗濯桶まで担いでくるようになったせいで、工房の隅にはいつのまにか鍋の棚ができている。ボリスに言わせると、それが評判を呼んでいるらしい。武器しか触らない整備士は街に何人もいるが、鍋を叩く一等免状持ちは大陸にひとりだけだそうだ。
列のほうがざわつきはじめたのは、そのころだった。
最初は小さな声で、それがだんだん広がって、やがて誰も喋らなくなった。行列が静かになるというのは妙なもので、俺は手を止めずに顔だけ上げた。
列の中ほど、二十人ばかり後ろに、赤い外套が立っていた。
それだけなら別に珍しくもない。赤い外套を着ている探索者は街に何百人といる。ただ、その人物の周りだけ、前後に人ひとりぶんずつ空間が空いていた。誰も押しのけられていないのに、そこだけ人がいない。
俺の隣で錆落としをしていたニナが、手を止めていた。
「ゲルトさん」
「なんだ」
「あの人」
ニナはそこで言い直した。
「あの人、三時間くらい前から並んでます」
「そうか」
「番号札、持ってます。四十七番の」
俺は当て金を置いた。
番号札というのは、先週ニナが自分で考えて作りはじめたものだ。木札に炭で数字を書いただけの粗末なやつだが、これができてから列の喧嘩がぱたりと止んだ。あの子は頭がいい。
番号札ができるまでは、毎日のように喧嘩が起きていた。朝いちばんに来た者と、いちばん重傷の者と、いちばん声の大きい者とのあいだでもめて、一度は殴り合いになりかけた。あのときニナが震えながら板きれを配りはじめて、それきり誰ももめなくなった。理屈ではなく、あの子が震えていたからだと思う。人というのは、震えている人間の言うことをなぜか聞く。
「順番が来たら呼べ」
「え」
「並んでるんなら、順番だろう」
ニナは何か言いかけて、それから小さくうなずいて、木札の束に戻った。
列の連中が、こちらを見ていた。何かを期待している目つきで、俺は正直それが少し鬱陶しかったので、鍋に戻ることにした。
二時間かかった。
その間、赤い外套は一度も列を離れず、一度も文句を言わず、前の四十六人ぶんが終わるのを黙って待っていた。時々、前の客が助言を受けているのを、少し首を傾けて聞いているのが視界の端に入った。
三十番台の男は、鎚の柄を握る位置が高いと言われて目を丸くしていたし、四十番台の女は脛当ての留めを一段下げろと言われて声を出して笑っていた。赤い外套は、そのどれも黙って聞いていた。
ボリスが屋台の向こうから、こちらに顎をしゃくってみせた。気づいてるかという顔だったので、俺は当て金を持ち上げて鍋に戻った。
やがてニナが、いつもと同じ調子で番号を読み上げた。
「四十七番の方、どうぞ」
足音が近づいてきて、俺の前で止まった。
顔を上げた。




