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いつのものか

その晩、俺は独りで穴の前に座っていた。


 みんなを帰した。ボリスにも帰れと言ったら、屋台に飯を置いていった。ヴィオラは腕を縫ってもらったばかりだったが、隅にいた。帰れと言っても帰らないので、放っておいた。


 俺は灯りを穴の底に近づけて、傷を端から見ていった。


 いつもの手順だ。両手で触って、片手で触って、光の角度を変えて、指の腹で撫でて、爪で引っかけて、爪の背で叩く。


 円い傷は、全面に散っている。深さはほぼ一定で、片減りがない。回るものが、傾かずに載っていた。


 その傷を、俺は端から数えるように追った。


 数えたわけではない。ただ、指がひとつずつ拾っていく。房で二十年やってきた動きで、頭は使っていない。手が勝手に動いて、拾ったものを頭に置いていく。


 三刻ほど、そうしていた。


 途中でヴィオラが水を置いていった。飲んだ覚えはあるが、いつ飲んだかは覚えていない。こういう見方をしているとき、俺はたぶん半分寝ている。房にいたころ、若いのに気味悪がられたのを覚えている。


 やがて、指が止まった。


 止まった場所を、灯りに寄せた。


 縁だった。


 円の中ではない。座の縁、その一か所。


 角が、残っていた。


 俺は指を離して、もう一度当てた。


 引っかかる。


 他の縁は全部丸い。俺が最初に見たときも、トビーが読んだときも、ヨナスが型を取ったときも、全部丸かった。丸めるのは、抜き差しのときに欠けないようにするためだ。


 その丸めが、この一か所だけ、途中で終わっていた。


「……ヴィオラ」


 隅から、足音のしない人が寄ってきた。


「灯りを持ってくれ」


 彼女は左手で灯りを持った。右腕は吊っている。


 俺は両手で縁をたどった。丸い、丸い、丸い。そして、そこだけ引っかかる。


 長さで言えば、指二本ぶんもない。


 削り残しだ。


 削っている途中で、そこだけやめている。


 念のため、他の縁を全部たどり直した。一周して、また戻った。二周して、三周した。引っかかるのは、そこだけだった。


 三周目の途中で、ヴィオラが灯りを持ち替えた。左手が疲れたんだろう。腕を吊ったまま、この人は三刻近く立っていたことになる。


「座れ」


「立ってる」


「腕にさわる」


「さわらない」


 俺は諦めた。


 しばらくして、ヴィオラが小さい声で言った。


「これ、見つけて、どうする」


「分からん」


「分からないのに、見てる」


「見ないと分からんからな」


 この人は、それきり何も言わなかった。ただ、灯りの位置を少しだけ下げた。低いところから当てると、縁の凹凸が影で出る。誰にも教わっていないはずだが、この人はそういうことをする。


 この人は、剣の柄を銅貨で直したというだけの理由で、街の裏まで人を探しにいく。腕を縫ったばかりで灯りを持つくらいのことは、たぶん本人の中では数に入っていない。



 俺は、しばらく動けなかった。


 この仕事をした人間は、丁寧だった。それは最初から分かっていた。殻の継ぎ目もそうだったし、座の縁もそうだった。角を残さない。真ん中を厚くする。抜き差しを前提にする。全部、俺が二十年やってきたことと同じ理屈で、俺より丁寧にやってあった。


 その人間が、ここだけ手を抜いている。


 いや、抜いていない。


 抜いたのなら、他も抜く。手を抜く人間は、いちばん見えないところから抜く。ここは縁だ。触れば分かる場所だ。


「途中でやめてる」


 俺は声に出していた。


 ヴィオラが、灯りを少し傾けた。


「三十階のと、同じ」


 俺は顔を上げた。


 半分だけ詰められた殻。二日か四日前に置いていかれた、途中の仕事。


 そして、この縁。


「同じだな」


 俺は縁に手を置いた。


「同じことが、ここでも起きてる」


 ヴィオラは何も言わなかった。


 言わなかったが、灯りを縁のほうへ寄せ直した。俺が見やすいようにだ。この人はいつも、言葉の代わりにそれをやる。


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