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 全部

ニナが口を開いたのは、その日の午後だった。


 あの子は帰ってきてから、ほとんど喋らなかった。仕事はした。錆落としをして、番号札を作り直して、分店の帳面をつけた。ただ、自分から何も言わなかった。


 俺は待った。訊けば答えるだろうが、訊かれて答えたものは、あとで本人の中で形が変わる。房でそういうのを何度も見た。


 その代わり、仕事は渡した。手が空くと人は考えすぎる。あの子には分店の帳面をまとめ直させて、ついでに番号札を全部作り替えさせた。木札は湿ると割れるので、どうせ替え時だった。


 午後、彼女は台の前に来て、それから、両手を前で組んだ。


「ゲルトさん」


「うん」


「報告、してもいいですか」


「聞く」


 あの子は、しばらく言葉を探していた。


「三十階、着いた瞬間から、ずっと鳴ってました」


「鳴ってた」


「はい。あの、ふたつの音です。継ぎ目を叩いたときの、返ってくるほうの小さいやつ」


「それが、どこで鳴ってた」


「壁です」


 俺は当て金を置いた。


「あと、床と、天井です」


「全部か」


「全部です」


「大きさは」


「鳴ってる強さがです。壁のほうが強くて、天井が弱いです。床は場所によります」


「場所による」


「はい。強いところの真上に、輪のある魔物がいたことが二回ありました」


「逆じゃないのか。魔物がいるから鳴ってるんじゃなく」


「わかりません。ただ、鳴ってるところに、いました」


 ヨナスがすかさず書き取った。この子は因果を決めつけない言い方を、近ごろニナから学んでいる。


 分からないことを分からないと書いておけば、あとで別の誰かがそこを埋められる。決めつけて書いたものは、間違っていたときに丸ごと捨てることになる。房で二十年、俺は所見の欄でそれを繰り返した。


 工房の中で、誰かが息を呑んだ。誰かは分からなかった。


「歩いてるあいだ、ずっとです。強いところと弱いところはありますけど、途切れませんでした」


「叩いてもいないのにか」


「はい。勝手に鳴ってます」


 ニナは自分の耳のあたりに指を当てた。


「あの、たぶん、ずっと前から鳴ってたんだと思います。わたし、九層でも十層でも、ずっと聞いてました。聞いてたけど、迷宮の音だと思ってたので」


「迷宮の音」


「はい。地下だから鳴るんだって、思ってました」


 俺は台に手をついた。


 この子は最初から聞いていた。聞こえていたが、それが何なのかを知らなかった。継ぎ目を叩いて、そこから同じ音が返ってきて、初めて結びついた。


「ニナ」


「はい」


「うちの階は、どうだ」


 あの子の動きが、止まった。


 止まったまま、しばらく何も言わなかった。


「……鳴ってないです」


「いつからだ」


「わかりません。ずっと、鳴ってないです」


 彼女は工房の床を見た。


「わたし、ここに来るとき、いつも静かだなって思ってました。耳が楽なので。だから来やすかったんです」


 誰も何も言わなかった。


 俺は鉄骨の裏のほうを見た。あの円い穴が、そこにある。


 外して、持っていかれた座。


「ニナ」


「はい」


「悪いが、もう一つ頼みたい」


「はい」


「あの床の前で、耳を澄ませてくれ」


 あの子は頷いて、歩いていった。


 しばらくして、戻ってきた。


「何も聞こえないです」


「そうか」


「あの、ゲルトさん」


「なんだ」


「わたし、たね、って呼んでました」


「たね?」


「あの黒いやつです。頭の中で、ずっとそう呼んでて」


 あの子は少し恥ずかしそうにした。


「たねが入ってるところは鳴ってて、抜かれたところは鳴ってないのかなって」


 ヨナスが、紙に何か書きつけた。


 あとで見たら、記録の名称欄に「たね(仮称)」と書いてあった。


「ヨナス」


「はい」


「その名前でいいのか」


「呼び名がないと集計ができません。仮称と書いておけば、正式な名がついたときに差し替えられます」


 この子は、そういうところが速い。


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