↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/83

鉄の匂いではない

 その日の夜、俺はボリスに前の話を訊いた。


「あんた、この前言ってたな。鉄くずが積んである場所は他にもあるのに、そっちには魔物が来たと」


「言った」


「どこだ」


「二十二階の下りの手前と、八階の詰所の裏だな。どっちも鉄がしこたま積んである。あそこは普通に出る」


「出るのか」


「出るから飯場に人が集まるんだよ。狩ってすぐ食えるからな」


 俺は当て金を置いた。


 この階層に魔物が来ないのは鉄の匂いのせいだ、というのは、この街の誰もが知っている話だ。俺も二十年そう思っていた。誰から聞いたのかは覚えていない。たぶん誰からも聞いていない。ここへ来た者がそう言って、次の者がそれを繰り返して、そういう形になっただけだろう。


 確かめた人間が、たぶん一人もいない。


 こういう話は、この街にいくらでもある。二十二階から下は水が飲めない。銀級は三人以上で潜れ。魔物の目を潰すと群れが来る。どれも誰かが言い出して、誰も確かめていない。房にいたころ、俺はその手の話をひとつずつ潰していくのが好きだった。潰していくと、たいてい半分は本当で、半分は嘘だった。


 鉄の匂いの話を潰さなかったのは、潰す理由がなかったからだ。ここに魔物が来ないのは、俺にとって都合がよかった。


 都合のいい話は、たいてい確かめられない。


 トビーが横から、遠慮がちに言った。


「でも、二百年誰も確かめてないんですよね」


「そうだな」


「二百年です」


「二百年でも二日でも同じだよ。確かめる理由がない話は、誰も確かめない」


 トビーは砥石を洗いながら、しばらく黙っていた。


「じゃあ、いまは理由があるんですね」


「ある」


「どんな理由ですか」


「足元に穴が開いてる」


「ヨナス」


「はい」


「うちの階層で、魔物の出た記録はあるか」


「ギルドの区画記録なら、マレーネさんに頼めば出ます」


「頼め」



 三日後、マレーネが記録を持ってきた。


 持ってきたというより、抱えてきた。区画記録というのは階層ごとに一冊で、二百年ぶんとなると厚みが腿ほどある。ダンが途中で受け取って運んだ。


 彼女はそれを台に広げて、読み上げた。


「第十七階層、灰の回廊区画。魔物の出現報告は、記録が残っている範囲では、ありません」


「ゼロか」


「ゼロです。ただし」


 彼女は次の頁を開いた。


「隣接する区画では出ています。第十七階層のほかの区画では、月に十件前後の報告があります。灰の回廊だけが、ゼロです」


「範囲は」


「この区画の境目までです。境目を一歩出ると、出ます」


 俺は台に肘をついた。


「線が引いてあるみたいだな」


「そう見えます」


「マレーネさん。鉄の匂いで魔物が寄らないという話は、どこかに書いてあるか」


 彼女は少し黙った。


「……探しました。書いてありません」


「どこにもか」


「どこにもです。文献にも、ギルドの区画注記にも、探索者向けの手引きにもありません」


 彼女は眼鏡を押し上げた。


「誰もが知っていることになっていますが、出典がありません」


 工房が静かになった。


 トビーが小声で言った。


「じゃあ、なんで来ないんですか」


 俺は答えなかった。


 答えは持っていない。ただ、思いつくことはひとつあった。


 昔、房で聞いた話だ。老朽化した工房を閉めるときは、まず設備を外し、次に人を移し、最後に電を落とす。落とした区画には誰も入らない。入る理由がないからだ。


「トビー」


「はい」


「あんた、房が閉まった日のことを覚えてるか」


「覚えてます」


「あの日から、あの房に誰か入ったか」


 トビーは少し考えて、首を振った。


「入ってません。鍵はかかってませんでしたけど、誰も」


「なんでだ」


「……用がないので」


 俺は穴のほうを見た。


 あの床の座は空だ。外して、持っていった。使えるものを外した区画に、用のあるものは、たぶんもう何も来ない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。