鉄の匂いではない
その日の夜、俺はボリスに前の話を訊いた。
「あんた、この前言ってたな。鉄くずが積んである場所は他にもあるのに、そっちには魔物が来たと」
「言った」
「どこだ」
「二十二階の下りの手前と、八階の詰所の裏だな。どっちも鉄がしこたま積んである。あそこは普通に出る」
「出るのか」
「出るから飯場に人が集まるんだよ。狩ってすぐ食えるからな」
俺は当て金を置いた。
この階層に魔物が来ないのは鉄の匂いのせいだ、というのは、この街の誰もが知っている話だ。俺も二十年そう思っていた。誰から聞いたのかは覚えていない。たぶん誰からも聞いていない。ここへ来た者がそう言って、次の者がそれを繰り返して、そういう形になっただけだろう。
確かめた人間が、たぶん一人もいない。
こういう話は、この街にいくらでもある。二十二階から下は水が飲めない。銀級は三人以上で潜れ。魔物の目を潰すと群れが来る。どれも誰かが言い出して、誰も確かめていない。房にいたころ、俺はその手の話をひとつずつ潰していくのが好きだった。潰していくと、たいてい半分は本当で、半分は嘘だった。
鉄の匂いの話を潰さなかったのは、潰す理由がなかったからだ。ここに魔物が来ないのは、俺にとって都合がよかった。
都合のいい話は、たいてい確かめられない。
トビーが横から、遠慮がちに言った。
「でも、二百年誰も確かめてないんですよね」
「そうだな」
「二百年です」
「二百年でも二日でも同じだよ。確かめる理由がない話は、誰も確かめない」
トビーは砥石を洗いながら、しばらく黙っていた。
「じゃあ、いまは理由があるんですね」
「ある」
「どんな理由ですか」
「足元に穴が開いてる」
「ヨナス」
「はい」
「うちの階層で、魔物の出た記録はあるか」
「ギルドの区画記録なら、マレーネさんに頼めば出ます」
「頼め」
三日後、マレーネが記録を持ってきた。
持ってきたというより、抱えてきた。区画記録というのは階層ごとに一冊で、二百年ぶんとなると厚みが腿ほどある。ダンが途中で受け取って運んだ。
彼女はそれを台に広げて、読み上げた。
「第十七階層、灰の回廊区画。魔物の出現報告は、記録が残っている範囲では、ありません」
「ゼロか」
「ゼロです。ただし」
彼女は次の頁を開いた。
「隣接する区画では出ています。第十七階層のほかの区画では、月に十件前後の報告があります。灰の回廊だけが、ゼロです」
「範囲は」
「この区画の境目までです。境目を一歩出ると、出ます」
俺は台に肘をついた。
「線が引いてあるみたいだな」
「そう見えます」
「マレーネさん。鉄の匂いで魔物が寄らないという話は、どこかに書いてあるか」
彼女は少し黙った。
「……探しました。書いてありません」
「どこにもか」
「どこにもです。文献にも、ギルドの区画注記にも、探索者向けの手引きにもありません」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「誰もが知っていることになっていますが、出典がありません」
工房が静かになった。
トビーが小声で言った。
「じゃあ、なんで来ないんですか」
俺は答えなかった。
答えは持っていない。ただ、思いつくことはひとつあった。
昔、房で聞いた話だ。老朽化した工房を閉めるときは、まず設備を外し、次に人を移し、最後に電を落とす。落とした区画には誰も入らない。入る理由がないからだ。
「トビー」
「はい」
「あんた、房が閉まった日のことを覚えてるか」
「覚えてます」
「あの日から、あの房に誰か入ったか」
トビーは少し考えて、首を振った。
「入ってません。鍵はかかってませんでしたけど、誰も」
「なんでだ」
「……用がないので」
俺は穴のほうを見た。
あの床の座は空だ。外して、持っていった。使えるものを外した区画に、用のあるものは、たぶんもう何も来ない。




