外されている
俺は半日、その床の前から動かなかった。
飯はボリスが持ってきた。水はミアが持ってきた。誰も帰れと言わなかったし、俺も誰にも帰れと言わなかった。
やったことは、いつもの手順と同じだった。
両手で触って、片手で触って、傾けられないので身体のほうを傾けて、灯りの角度を変えて、指の腹で撫でて、爪で引っかけて、爪の背で叩いた。
叩いた音は、ひとつだった。
乾いた、低い音だ。石の音ではない。石を叩くと、もっと短く切れる。これは尾を引いた。
ニナがいれば、ふたつ聞こえたのかもしれない。
「トビー」
「はい」
「あんた、これをどう読む」
「え」
「読んでみろ。俺が黙ってるあいだに、見てただろう」
トビーは膝をついて、しばらく底を見てから、言った。
「傷が、円です。回るものが載ってたんだと思います」
「うん」
「深さが一定です。片減りしてません。……つまり、傾いてなかった」
「うん」
「あと、縁が丸いです。抜き差しする前提です」
「そこまでは俺と同じだ」
俺は縁を指した。
「もうひとつある。ここを見ろ」
縁の一か所に、細い擦れがあった。他の場所より新しい。円の傷とは違って、直線に近い形で、外へ向かって走っている。
「これは何ですか」
「外したときの跡だ」
トビーの動きが止まった。
「載ってたものを持ち上げるとき、まっすぐ上には抜けない。重いものは必ずどこかを支点にして、少し傾けて外す。そのとき縁に当たる。この擦れが、その一回だ」
「一回」
「一回だな。何度も外してたら、擦れも円くなる」
俺は立ち上がった。
「これは壊れて落ちたんじゃない。外されてる」
誰も何も言わなかった。
ヨナスが眼鏡を押し上げて、それから言った。
「外したということは、持っていったということですか」
「そうなるな」
「どこへ」
「知らん」
「なぜ、ですか」
「それも知らん」
俺は穴の縁に腰を下ろした。
「ただ、外し方は丁寧だ。壊してない。縁も欠けてない。持っていくつもりで、持っていける状態にして、持っていってる」
「……はい」
「ヨナス。整備の言葉で、そういうのを何て言う」
この子は、答えを知っている顔をしていた。知っていて、言いたくない顔だった。
「撤去です」
「そうだな。使えるうちに外して、次のところで使う。俺も房でやった」
「房で、ですか」
「工房を建て替えるとき、古い研磨台を先に外して新しい房へ運んだ。壊れてないものを外すのは、そういうときだ」
ヨナスは何か言おうとして、口を閉じた。
言おうとしたことは、たぶん分かる。工房を建て替えるなら、新しい房がどこかにあるということだ。
俺も同じことを考えていたので、口には出さなかった。
「そうだな」
俺は工房のほうを見た。
ここへ来た日のことは、よく覚えている。行くあてがなくて、家に帰りたくなくて、モンスターも来ないというだけの理由でこの区画を選んだ。家賃がかからないのがいいと思った。
鉄骨と、木箱と、割れたパレットと、十年ぶんの捨てられたもの。俺が初めてここへ来た日に見た景色を、そのまま思い出せる。
「ここは、要らなくなった区画だ」
言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。
要らなくなった、というのは、悪い意味ばかりではない。房を閉じたときも、俺の人件費は数字の上で正しく要らなかった。要らないと判断されたものが、そこで終わるとは限らない。
誰も否定しなかった。
「使えるものは外して、持っていった。残りは置いてある。俺が最初に来た日に転がってた鉄くずは、たぶん、そういうものだ」
ボリスが、屋台の縄をほどきながら言った。
「なあ、ゲルトさんよ」
「なんだ」
「捨てたやつが、いるってことだよな」
俺は答えなかった。
答えなかったが、その言い方は正しかった。




