前例がない
マレーネが工房に降りてきたのは、それから六日後だった。
彼女は綴じ帳を抱えていた。いつもと同じ抱え方に見えたが、抱えている腕の位置が高い。この人は不機嫌になると、綴じ帳が胸に近づく。
「上がらなかったか」
「上がりました」
「じゃあいいじゃないか」
「上がって、止まりました」
彼女は台に綴じ帳を置いて、開いた。
「報告そのものは受理されています。第三十階層産の大型甲殻類において、体内に人工物と推定される物体を確認。塞がれた開口部の存在を確認。物体の寸法比が複数個体間で一致。ここまでは書けました」
「書けたなら十分だろう」
「問題はその先です」
彼女は次の頁を開いた。白紙だった。
「対応欄が埋められません」
「埋めろよ」
「埋める分類がありません」
マレーネは羽根ペンを持ち上げて、また置いた。
「ギルドの報告書には、対応の種別を書く欄があります。討伐、封鎖、注意区画指定、調査継続。この四つです」
「調査継続でいいだろう」
「調査継続には、調査の対象を書く欄があります」
「対象は殻だ」
「殻は既に調査されました。結果、人工物と推定される物体が出た。では次に何を調べるのかと訊かれます」
「誰が入れたかだ」
「その欄がありません」
俺は当て金を置いた。
「誰かがやったことを調べる欄が、ないのか」
「迷宮内で起きることに、人がやったという分類が存在しないんです。迷宮は現象です。魔物は災害です。そう扱われてきました」
彼女は綴じ帳を閉じた。
「上の判断は、こうでした。人工物と推定される物体が確認されたが、それを設置した主体は確認されていない。よって当該事案は調査対象を特定できず、記録のうえで保留とする」
工房が静かになった。
トビーが、砥石を置いた音がやけに大きく聞こえた。
「……確認されていない、ですか」
言ったのはニナだった。
俺は彼女のほうを見た。あの子は台の縁を両手で握って、まっすぐマレーネを見ていた。
「そうです」
「確認されていないから、いない、ですか」
「そういうことになります」
マレーネは、そこで一度だけ目を伏せた。
「わたしは半日、上と話しました。話しましたが、規則の側が正しいのです。誰かが入れたと書くには、その誰かを確認する必要があります。確認するには調査が要ります。調査を出すには対象が要ります。対象を書くには、誰かを確認していなければならない」
「輪だな」
「輪です」
「その規則、誰が作った」
「二百年前です。迷宮が開いた直後に」
「その時代の人間は、迷宮の中に誰かがいるとは思わなかったわけだ」
「思う理由がありませんでした」
彼女は綴じ帳の背を撫でた。
「規則というのは、想定した範囲の外に出た瞬間に、いちばん頑固になります。想定していないので、例外の書き方も決まっていないんです」
俺はそれを聞いて、房の点検簿を思い出した。
あそこにも、要交換と書く欄はなかった。所見の欄に俺が勝手に書いていただけで、決まった書き方がないから、俺の字でしか残らない。残らなかったものが、二十件たまっていた。
書式は人を守る。守るが、書式にない事態が起きたときには、何ひとつ守ってくれない。
俺は台の上の、七つの黒いやつを見た。
規格のある、消耗品。減ったら替える前提で作られたもの。
誰かがそれをやっているのに、その誰かを書く欄が、この街には無い。
「マレーネさん」
「はい」
「その報告書、誰が署名した」
「わたしです」
「他には」
「わたしだけです」
彼女は綴じ帳を抱え直した。
「わたしの名前だけです。それも、窓口の職員として」
「あんたは一等の実技に三度落ちた人だろう」
「……それは、関係がありますか」
「ある。三度受けるやつは、そう多くない」
マレーネは眼鏡を押し上げかけて、途中でやめた。
「ギルド職員一名の署名では、重みがありません」
「重みってのは、何で決まるんだ」
「等級と、記録です。記録というのは、その人がこれまで何に署名して、それが後でどうなったか、ということです」
「あんたの記録は」
「窓口です。窓口の職員が署名した報告で、上が動いた例はありません」
マレーネはそう言って、少しだけ笑った。笑い方が、あまり上手ではなかった。




