ボリスの鍋、五つ目
その週、アニカが五つ目の鍋を持ってきた。
「またか」
「またです」
「火加減を直せと何度言った」
「四回です」
「数えるな」
底を見ると、案の定、中央が白く薄くなっている。ただ、前の四つとは違うところがひとつあった。焦げの輪が二重になっている。
「あんた、火から下ろしてまた上げただろう」
「え、なんで分かるんですか」
「輪が二本ある。一度目の水位と、二度目の水位が違う」
アニカが目を丸くして、それからボリスのほうを見た。ボリスは炭を返しながら、こっちを見もせずに言った。
「そりゃ俺が言ったんだよ。一度下ろして落ち着かせろってな」
「下ろす前に火を弱めろと言ってるんだ」
「弱めると香りが出ねえんだよ」
「鍋が死ぬ」
「鍋は直るだろ」
言い返す言葉が、一瞬出てこなかった。
この男はこういうところが強い。
結局、俺は底を叩き出して、内側に薄い一枚を足した。二重にしておけば、次に空焚きしても中まで抜けない。アニカがそれを見て、これでいくらですかと訊いた。
「いつもの値段だ」
「六つ目も直してくれますか」
「六つ目を作るな」
「作らないです」
「五回同じことを言われた人間の台詞じゃないな」
「六回目は言わせません」
ボリスが向こうで笑っていた。この二人は最近やたらと気が合っている。
もっとも、六つ目は二月と経たずに持ち込まれることになる。そのときのアニカの言い分は、鍋が悪いというものだった。
その日は、久しぶりに殻の話をしない日になった。
列は普通に伸びて、俺は普通に道具を見た。斧の刃を起こし、脛当ての留めを下げ、水筒の栓を削った。ヨナスは客の顔を見てから道具に触るようになったし、ミアは分からないところで手を止められるようになった。ラルフは相変わらず喋らないが、研ぎがいちばん速い。
夕方、ニナが第五層から上がってきた。分店の帳面を持ってきて、その日回してきた三本を台に置いた。
「これ、分からなかったやつです」
「どれだ」
「真ん中のです。留め金は問題ないんですけど、なんとなく、音が」
「音か」
「はい。振ると、中で何か鳴ってる気がして」
俺は籠手を受け取って、振った。
鳴らなかった。
「聞こえん」
「……ですよね」
「開けるか」
「え」
「あんたが鳴ると言ったんだ。開けて、鳴ってなかったら俺が組み直す。それだけの話だ」
開けたら、内側の当て革の下から、折れた留め金の欠片が出てきた。
前の修理のときに落ちたものが、そのまま縫い込まれていた。放っておけば、いずれ革を裂いて内側から刺さる。
ニナは欠片を手のひらに載せて、しばらく見ていた。
「あの」
「なんだ」
「わたし、分からなかったから回したんです」
「そうだな」
「でも、分からなかったんじゃなくて、聞こえてました」
「そうだな」
「次は、聞こえたって言っていいですか」
「言え」
俺は当て革を裁ちながら答えた。
「言って、それから回せ」
ニナは欠片を紙に包んで、綴じ帳に挟んだ。三冊目の、癖の帳面のほうだ。番号と日付だけを書いていた。
「名前は書かないのか」
「書かないです」
「なんでだ」
「この人の話じゃなくて、前の修理の話なので」
俺は当て革を縫いながら、少し笑った。この子の分け方は、いつのまにか俺より正確になっている。
その晩、片づけのあとで、ボリスが妙なことを言った。
「なあ、ゲルトさん。ここ、なんで魔物が来ねえんだ」
「鉄の匂いだろう」
「そう言われてるな」
「言われてるな、とは」
ボリスは炭を灰に埋めて、手を叩いた。
「俺は前に、迷宮の飯場をあちこち回ったんだよ。鉄くずが積んである場所なんて、他にもいくらでもあった」
「それで」
「魔物、普通に来たぞ」
俺は片づけの手を止めた。
止めたが、その日はそれ以上、何も考えなかった。




