ボリスの鍋
ある朝行ってみたら、十七階に屋台ができていた。
俺の店から二十歩ばかり離れた鉄骨の下で、荷車を改造したやつの上に幌が張ってあり、鍋が二つと炭焼き台が一つ、その向こうで坊主頭のおっさんが煮物をかき混ぜていた。
「よう」
「……誰だ、あんた」
「ボリスだ。あんたが噂の修理屋だろう」
「噂とは」
「ギルドの伝言板」
また伝言板だ。俺はいまだにそれを一度も見たことがない。
「なんで屋台なんだ」
「人の集まるところに飯を出すのが商売ってもんだろうが」
「ここ、許可は取ってあるのか」
「あるわけねえだろ、迷宮の十七階だぞ。役人が降りてくると思うか」
言われてみればその通りだった。
「まあ食え」
差し出された椀の中身を見て、俺は少し黙った。厚めに切った肉が四切れ、飴色の煮汁に沈んでいて、その下に麦の飯が敷いてある。
「これは」
「岩猪のバラだ。四層のやつを、若いのが安く卸してくれる」
「魔物の肉か」
「食えるやつはうまいんだよ。岩猪は牙が固いから肉も固いと思われてるが、腹んとこだけは別でな、ありゃもう豚だ。むしろその辺の豚よりいい」
匙を取って一切れ食ってみると、噛んだ瞬間に脂が来た。思っていたよりずっと甘い脂で、豚よりさっぱりしているくせに旨みだけは濃く、塩と生姜と、それからよく分からないものが効いている。香草ではなく、もっと土っぽい何かだった。
「なんか入れてるだろう」
「三層に生えてる根っこだ。土竜根っていうんだが」
「それ、食えるのか」
「二年食ってるが死んでねえな」
「証明として弱すぎる」
それでもうまかったので、俺は飯を掻き込んだ。二十年、昼といえば房の隅で堅パンをかじってきた男には、あれはよく効いた。気づいたら椀が空になっていた。
「おかわりいるか」
「いる」
「素直でよろしい」
その日から、俺の店の前に「食う場所」ができた。順番待ちの探索者が待っているあいだに飯を食い、金のないやつにはボリスが勝手に食わせる。
「金? いらねえよ。後でな」
これがボリスの口癖で、後でというのはたぶん一生来ない。
「なあボリス。それ、商売になってるのか」
「なってねえよ」
「じゃあなんで」
「あんただって銅貨十枚で金級の剣を直しただろうが」
「あれは」
「同じだよ」
ボリスはそう言って炭焼き台に肉を並べた。脂が落ちて白い煙が上がると、順番待ちの列のほうから、うめき声のような音がまとめて聞こえてきた。
午後になってニナが来た。近ごろ彼女は二日に一度くらい顔を出すようになっていて、用がなくても来て、掃除をして、帰っていく。俺は何も言わないし、彼女も何も言わない。
その日、彼女はボリスの屋台の前で足を止めて、動かなくなった。財布を出して、開けて、閉じた。俺はもう、その動作の意味を知っている。
「ボリス」
「あん?」
「その子に一杯」
「おう。何を乗せる」
「いや、俺が払う」
「いらねえよ」
「そういうのはよくない」
「よくねえのはあんたも同じだろうが」
言い返せなかった。
ニナは椀を両手で受け取ったまま、しばらく立っていた。それから小さい声でいただきますと言って、一口食べて、二口目で動きが止まり、三口目で顔を伏せた。肩が震えていた。ボリスは黙って炭をかき混ぜ、俺は黙って短剣を研いだ。誰も何も言わなかった。
ニナは椀を空にすると深く頭を下げて、それから通路の掃除を始めた。いつもより丁寧に掃いていた。
その晩、片づけをしながらボリスが言った。
「ゲルトさんよ。あの子、何日食ってなかったと思う」
「知らん」
「二日だな。三日は行ってない。三日行くと箸の持ち方が変わるんだ」
「なんでそんなことが分かるんだ」
「二十年、酒場をやってたからな」
俺は手を止めた。ボリスが笑った。
「あんたが武器を見て分かるのと同じだよ」
なるほどな、と思った。人間、二十年も同じことをやっていると、そういうものが見えるようになるらしい。誰でもそうなんだと、このときの俺はまだ信じていた。




