無音のヴィオラ
行列ができて十日が経ち、人数は一日三十人前後で落ち着いた。来るのは灰級と銅級ばかりで、つまり金のない層、装備の古い層、誰も面倒を見てくれない層だった。
全員をただで見るのはさすがに無理だったから料金を決めて、点検と助言は無料、修理は銅貨十枚から、材料は実費ということにした。十枚にしたのは彼らが払える上限がそのあたりだからで、二十枚にすると来なくなるし、来なくなったら意味がない。
その日も俺は木箱に腰かけて短剣を研いでいた。列は十四人、ナットは足元でボルトを大きさ順に並べていて、こいつは最近、俺がよく使う寸法を覚え始めている。
そのとき、列が割れた。
誰かが押しのけたわけではなく、人のほうが勝手に道を空けたのだ。顔を上げると女が歩いてきていて、背が高く、黒髪を短く切りそろえ、表情というものがまるでなかった。防具は黒一色で装飾がひとつもなく、腰に細身の剣を一本だけ差している。
石の床を歩いているのに、足音がしなかった。
列に並んでいた男が、俺の耳元で囁いた。
「ゲルトさん、あれヴィオラです」
「誰だ」
「金級ですよ。単独で二十八階まで行く人です。『無音のヴィオラ』」
「へえ」
女は俺の前まで来て止まると、腰から剣を抜いて鞘ごと差し出し、こう言った。
「柄」
それで終わりだった。それだけだった。
受け取って柄を見ると、握りの巻き革が中ほどで裂けている。
「……これ、直すのに半刻もかからないぞ」
「頼む」
「あんた金級だろう。クランの整備班が見るんじゃないのか」
「単独」
「あー、そうか、ソロか」
「専属を雇うと、金貨二十枚」
「そりゃ取るだろうな、金級の剣なら」
「巻き革で二十枚は、高い」
思わず笑ってしまった。この人、案外まともなことを言う。
「銅貨十枚でいい」
ヴィオラはわずかに首を傾げてから、無言で木箱の横に腰を下ろした。待つらしい。列の十四人がとんでもなく緊張していた。
巻き革を解いていくと中身が見えてきて、これがいい剣だった。柄に隠れていた茎に銘が切ってあり、機械ではなく人の手で打たれたものだと分かる。ただ、それより気になったのは握りの形のほうだった。
「あんた、右手を締めてないな」
ヴィオラがこちらを見た。
「この剣、左手だけで振ってる。右は添えてるだけだ。普通は逆で、利き手で振って反対の手で支えるものなんだが、あんたは支える側で振ってる」
沈黙が長かった。俺は巻き革をほどきながら続けた。
「昔、右手を怪我したな」
列の十四人が息を止めたのが分かった。ヴィオラはしばらく何も言わずにいたが、やがて右手を持ち上げて手袋を外した。手の甲に細い傷が三本、白く残っていた。
「十九のとき」
「腱か」
「二本、切れた」
「そりゃ痛かったな」
「痛かった」
彼女は手袋をはめ直した。
「誰にも、気づかれたことがない」
「そりゃそうだろう。動きのほうは完璧に見えるんだから、誰も疑わない。俺は柄を見ただけだ」
新しい巻き革を用意しながら、俺は少し考えて、また余計なことを言うことにした。近ごろこれが癖になりつつあって、あまりよくないと自分でも思っている。
「柄の形、変えていいか」
「?」
「右手を添えるだけなら右側は細くていい。太いと余計な力が入るからな。左手側だけ膨らませて、右は絞る。左右で太さの違う柄になる」
「そんな剣は、見たことがない」
「そりゃ、あんたみたいな握り方をする人間がいないからだ」
ヴィオラの眉が、ほんのわずかに動いた。それだけだったが、列の十四人が一斉にざわついたところを見ると、この人にとってはかなり大きい表情だったらしい。
「頼む」
「半刻と言ったが、あれは嘘だ。二時間くれ」
「待つ」
二時間後、できあがった剣を渡すと、ヴィオラはその場で抜いた。鞘走りの音がしなかった。一度素振りをして、風が鳴らなかった。二度目も鳴らず、三度目で彼女は動きを止めて、剣を見て、柄を見て、それから俺を見た。
「軽い」
「重さは変えてない」
「軽い」
「あんたが余計な力を使わずに済んでるだけだ」
ヴィオラは剣を鞘に収めると、財布から銅貨を十枚出して木箱の上に置き、少し迷ってからもう十枚を重ねて置いた。
「釣りはいらん」
「十枚でいい」
「いい」
彼女は背を向けて二歩歩き、振り返らずに言った。
「来週も来る」
「柄はもう壊れないぞ」
「……壊す」
「おい」
返事はなかった。足音のしない女が通路の向こうへ消えていくと、列の十四人がいっせいに息を吐いた。誰かが小声で、今の口説かれてましたよね、と言い、別の誰かが、壊すって言ってたぞ、と返し、最初の男がもう一度、口説かれてましたね、と言った。
俺は次の客の斧を受け取った。二十年、鉄としか喋ってこなかった男に、そういうことが分かるわけがない。




