教えてください
イレーネ・カストが降りてきたのは、講習の話が決まって少ししてからだった。
前に来たときと同じ灰色の外套で、前と同じように列に並ぼうとして、ニナに止められていた。用件が装備でない人は列に並ばなくていいという決まりを、あの子が作ったからだ。
「整備房を、再開します」
イレーネは開口一番そう言った。
「そうか」
「役員会を通しました。人員は当時の規模、待遇は当時より上です。鑑定盤は残しますが、所見の伝達を規定として文書に残します」
「いいんじゃないか」
「ただ、一等免状の所持者が、どうしても見つかりません」
俺は当て金を置いた。
そうだろうな、と思った。一等は大陸に四百人いない。そのほとんどが王家か大手クランの工房に抱え込まれていて、いま自由に動ける人間はほとんどいない。しかも、整備房を一度閉じたクランに移りたがる一等など、いるはずがなかった。
「口に出して言うのは恥ずかしいのですが」
イレーネは、綴じ帳を抱える手に力を入れていた。
「わたしたちは、一等を切ったクランとして知られています」
「知られてるだろうな」
「二等の所持者は三名確保しました。若い者も十名集まりました。ただ、彼らを育てられる人間がいません」
彼女はそこで、少し息を吸った。
「ハウザーさん。教えていただけませんか」
工房が静かになった。
トビーが砥石を止めて、ニナが番号札の束を持ったまま固まっていた。ボリスは屋台の向こうで炭をかき混ぜる手を止めていない。この人はいつもそうだ。
「戻れという話じゃないんだな」
「違います。戻ってくださいとは、もう申しません」
「なんでだ」
「前に伺ったとき、あなたはここの方々の道具を預かっているとおっしゃいました。あれは、断り文句ではなく事実だと思ったので」
俺は当て金の縁を指で撫でた。
「うちの若い者を、こちらに通わせます。修業料はお支払いします。あなたがこちらでの仕事を止める必要はありません。列の邪魔になるようなら、時間を区切ってくださってかまいません」
「何人だ」
「三名から始めさせてください。続くようなら増やします」
俺は、しばらく黙っていた。
断る理由はいくつも思いついた。手が足りない。教えるのが下手だ。あのクランに義理はない。どれも本当のことだった。
ただ、断る理由を並べている自分の頭の中に、別のものが混ざっていた。
二十年ぶんの決まりが、俺の口の中にしかなかった、という話だ。あれを言ったのは俺で、聞いたのはこの人だった。
「イレーネさん」
「はい」
「教えるのは下手だぞ。うちの子が言うには、俺は見ろとわかるだろうしか言わないらしい」
「存じています」
「知ってるのか」
「房の若い者から、そう聞いていました。当時は、ただの気難しい主任だと思っていました」
彼女は綴じ帳を下ろした。
「いまは、順番が書けないだけだったのだと思っています」
「よく言った」
「褒めていただけるとは思いませんでした」
「褒めてない。事実を言われただけだ」
イレーネは少し笑った。この人が笑うのを見たのは初めてだった。
俺はニナのほうを見た。
あの子は、番号札の束を抱えたまま、こちらを見返していた。
「……三人だな」
「はい」
「来週から来させろ。ただし、うちの規則に従ってもらう」
「規則、と申しますと」
「掃除だ」
「掃除、ですか」
「うちに来る人間は全員やってる。俺の作業場所がないからな」
「……承知しました」
「それと、うちの子らに敬語を使え。年下だが、教える側だ」
イレーネは綴じ帳を抱え直して、深く頭を下げた。下げた先は俺ではなく、番号札を持って立っているニナのほうだった。
あの子は札を落とした。
拾おうとして、また落とした。ダンが横から拾って渡していた。
イレーネが帰ったあと、ニナは番号札の束を抱えたまま、しばらく通路のほうを見ていた。
「ゲルトさん」
「なんだ」
「あの人、わたしに頭を下げました」
「下げてたな」
「わたし、去年まで、あの人の会社の建物に入れませんでした」
それは知らなかった。訊いたら、灰級は正面の扉を使えない決まりだったと言った。裏の受付に回されるらしい。
「いまはどうだ」
「たぶん、入れます」
「そうか」




