俺が書いたものじゃない
「一等免状の実技試験には、教本がありません」
マレーネはそう切り出した。
工房の作業台を挟んで、彼女は綴じ帳を三冊並べている。ニナは隣で、自分の書いたものが並べられているのを、落ち着かない顔で見ていた。
「筆記のほうは規則と法令ですから、学べます。実技は違います。三十七本の武具から使用者の癖を読み取れと言われて、では何をどう見ればいいのかを、誰も文字にしていません」
「そりゃそうだ。書けるやつがいないからな」
「なぜ、いないのでしょう」
「読める連中は、順番を意識してないんだよ」
俺は台に肘をついた。
「いっぺんに見てる。だから順番を書けと言われても書けん。俺もそうだった」
「では、なぜこれは書けたのですか」
マレーネは一冊目を開いた。
ニナが小さくなった。
「わたし、ひとつずつしかできないので」
「……はい」
「ゲルトさんが何かを見るときに、目がどこを向いてるかを、順番に書いただけです。あの、大したことじゃなくて」
「大したことです」
マレーネは、そう言い切った。
「わたしは三度落ちました。落ちた三回とも、何が足りないのか分からないまま帰りました。試験官は落ちた理由を教えません。教えられないからです。彼らも順番を知らないので」
彼女は綴じ帳の頁を撫でた。
「これがあれば、少なくとも、何を見ればいいのかは分かります」
「分かったら、読めるようになるのか」
「なりません」
彼女は即答した。
「読めるようになるかどうかは、その人の年月です。ただ、何を見ればいいのか分からないまま年月を積んでも、読めるようにはなりません。わたしがそうでした」
俺は台の上の綴じ帳を見た。
この人は三度落ちて、三度とも理由を教えられずに帰った。そのあいだ、たぶん何度も同じ場所ばかり見ていたんだろう。見る場所が違うと、誰も言わなかった。
俺は少し考えた。
「マレーネさん」
「はい」
「あんた、これをどうしたい」
「ギルドの講習で使いたいと考えています。二等免状の講習からです。将来的には一等の実技対策にも」
「それは、うちの子が書いたものだ」
「承知しています。ですから、著者としてお名前を」
「駄目だ」
俺の声が、思ったより強く出た。
工房が静かになった。ニナが顔を上げて、こちらを見ていた。
「……理由をお伺いしても」
「俺が書いたものじゃない」
俺は台の上の三冊を指した。
「一冊目はニナが書いた。二冊目はトビーだ。三冊目もニナで、あれは俺が見たこともない書き方をしてる。俺は喋っただけで、一文字も書いてない」
「ですが、内容は」
「内容は俺のものかもしれん。だが、書いてないものは俺のものじゃない」
言ってから、自分でも意外な言葉が出たと思った。
俺は房で二十年、書かなかった人間だ。書かなかったから消えた。その俺が、書かなかったものは自分のものではないと言っている。
筋は通っている。通っているが、これは自分に返ってくる筋だった。
「じゃあ、ハウザーさん」
マレーネは眼鏡を押し上げた。
「著者名は、アルトさんとトビーさんで出します。それでよろしいですか」
俺はニナのほうを見た。
あの子は、綴じ帳と俺を交互に見て、それから、両手を胸の前で握った。
「あの」
「なんだ」
「わたしの名前が、載るんですか」
「載るらしいな」
「ギルドの、講習で使うやつに」
「らしい」
ニナは口を開けて、閉じて、それから、トビーのほうを見た。
トビーは砥石を落としていた。
「トビー」
「はい」
「拾え」
「はい」
拾って、また落とした。
ニナは綴じ帳を胸に抱えたまま、しばらくそこに立っていた。この子は学舎を途中で辞めている。自分の名前が本に載るという話が、たぶんまだ形になっていない。




