綴じ帳が増えている
ニナの綴じ帳は、いつのまにか三冊になっていた。
最初の一冊は、俺が道具を見るときの手順を書き起こしたやつだ。あれは八つの項目で終わっていたが、いまは十四まで増えていて、しかも項目ごとに小さな図が添えられている。刃こぼれの角度の見方、脂の跡の位置、脛当ての留めの高さ。どれも下手な線で描いてあるが、下手なぶん、何を見ろと言っているのかがはっきりしていた。
二冊目は、失敗の記録だった。
これはトビーが書きはじめたものらしい。誰がどの道具でどう間違えたか、そのあとどうなったかが日付つきで並んでいる。自分の失敗も遠慮なく書いてあって、最初のほうの頁は半分がトビーだった。
三冊目が、いちばん妙だった。
開いてみると、客の癖が書いてある。名前は書いていない。番号だけだ。四十二番、右肩が下がる、指摘済み。五十七番、息を止める癖、二度言ったがまだ直らない。八十一番、研ぎの角度を教えた、次回確認。
俺はそれを、しばらく読んでいた。
「ニナ」
「はい」
「これ、誰に見せるつもりで書いた」
「見せるつもりはないです」
「じゃあなんで番号にした」
彼女は錆落としの手を止めて、少し考えてから答えた。
「名前で書くと、その人のことになるので」
「そのままじゃないか」
「はい。でも、番号だと、その人のことじゃなくて、癖のことになります。癖だけ集めておけば、あとで似た人が来たときに使えるので」
俺は綴じ帳を閉じた。
この子は、房の記録の付け方を誰にも教わっていない。教わっていないのに、房が二十年かけてたどり着いた形に、独りで着いていた。房でも、外部の客は番号で管理していた。理由は同じだ。
「ニナ」
「はい」
「この帳面、あと何冊いる」
「わかりません。増えます」
「増えるか」
「はい。人が来るぶんだけ」
あの子は当たり前のような顔でそう言った。俺は当たり前だと思ったことを書かずに済ませてきた人間なので、少し黙った。
「ニナ」
「はい」
「その帳面、俺が死んだあとも残るな」
「え」
「残るだろう」
「……縁起でもないです」
「そういう話じゃない。残るかどうかを訊いてる」
あの子は綴じ帳の背を指で押さえて、少し考えてから答えた。
「残します」
その綴じ帳を、キースの班が写しはじめたのは、それからしばらくしてのことだった。
最初は一人が写していて、次の週には四人になっていた。工房の隅で、前掛けをつけた男たちが並んで書き写している光景は、なかなか妙なものだった。
「あんたら、それを持って帰ってどうする」
「班で回します」
「回してどうする」
「覚えます」
キースは筆を止めずに答えた。
「うちの班は、これまで数値しか読んでこなかったので。ゲルトさんに教わったことを、そのつど覚えていられるほど頭がよくないんです。だから書きます」
「書いて覚えられるのか」
「覚えられなくても、書いてあれば戻れます」
俺はそれを聞いて、何も言わなかった。
二十年、俺は書かなかった。当たり前のことだと思っていたからで、当たり前だと思ったものは、俺がいなくなった時点で消えた。それをこの前、イレーネ・カストの前で自分の口から言ったばかりだった。
マレーネが降りてきたのは、その日の夕方だった。
彼女はいつも通り綴じ帳を抱えていて、いつも通り眼鏡を押し上げて、それから、工房の隅で写しをしている四人を見た。
見て、動きが止まった。
「……あれは、何をしているのですか」
「写してる」
「何をです」
「うちの子が書いた手順書だ」
マレーネは黙って歩いていって、キースの手元を覗き込んだ。
覗き込んだまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり顔を上げて、俺のほうを見た。眼鏡の奥の目が、いつもと違っていた。
「ハウザーさん」
「なんだ」
「これを、写させていただけませんか」
「勝手にどうぞ」
「いえ」
彼女は綴じ帳を胸に抱え直した。
「ギルドとして、です」




