湿った音
殻だった。
三十階から運ばれてきたあの甲殻とは違う。もっと薄くて、もっと軽くて、全体が丸みを帯びている。何かが脱いだあとの形だった。
脚の跡が、片側だけで数えきれないほどついている。
俺はそれを持ち上げて、灯りに寄せた。
「第九層か」
ヴィオラが頷いた。
「第三区画。壁の向こう」
「壁の向こうって、あんた、どうやって入った」
「水路から」
「水路」
「潜った」
工房の全員が黙った。第九層の水路は、探索者の間では入るなと言われている場所だ。狭いし、暗いし、流れがある。単独で潜る人間の話は聞いたことがない。
「ヴィオラさん」
ニナが、掠れた声で言った。
「なんで」
ヴィオラは濡れた髪を後ろへ払って、それだけ答えた。
「聞こえたと言ったから」
「え」
「あなたが」
それ以上は言わなかった。
彼女は工房の隅に座って、絞った外套を膝に置いて、剣の水気を拭きはじめた。相変わらず、必要なことしか言わない人だった。
濡れた靴を脱がせようとしたアニカが、手を軽く払われていた。自分でやるという意味だ。
俺は殻を台に載せて、端から見ていった。
薄い。爪でこすると細かい粉が出る。脚の跡は左右で数が違っていて、片側が多い。これは狭い場所を、壁に体を擦りつけながら移動する生き物の形だ。
そして、湿っていた。乾いてから時間の経った脱け殻ではなく、脱いでからいくらも経っていない。
「ニナ」
「はい」
「あんたが聞いたのは、これだ」
彼女は台の前に立って、殻を見た。しばらく見ていた。
やがて、手を伸ばして、指先で触れた。
触れて、すぐ引っ込めた。
「湿ってます」
「そうだな」
「あの音、湿ってました」
「そうだろうな」
彼女はもう一度触れて、今度は引っ込めなかった。
「ゲルトさん」
「なんだ」
「これ、大きいですか」
「殻で言えば、あんたの胴くらいだな。ただ、脱いだ殻は縮む。生きてるやつはこれより大きい」
ニナは殻の縁を指でたどった。
「もし、あのとき迂回しなかったら」
「五人では足りなかっただろうな」
あの子は、それきり何も言わなかった。
次の日、マレーネがそれを見に来た。
彼女は殻を見て、ヴィオラに経路を訊いて、綴じ帳に書き取って、それから、眼鏡を押し上げた。
「これでは、確認になりません」
トビーが、あからさまに不服そうな顔をした。
「なんでですか。物があるじゃないですか」
「持ち帰ったのが、ギルドの調査員ではないからです」
マレーネは綴じ帳を閉じた。
「グレイさんは金級ですが、私人です。私人が持ち込んだ物証で審査結果を覆した前例は、この支部にはありません。前例がないというのは、上が首を縦に振らないという意味です」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「調査です」
彼女は別の綴じ帳を出して、開いた。
「索敵報告の真偽が争われた場合、ギルドは当該区画の現地調査を行い、その結果をもって当該項目を再評価することができる。規約にあります。ただし」
「ただし?」
「申請には、当該区画に到達できる等級の者による同行の確約が要ります。第九層の水路であれば、銀級以上が二名」
工房が静かになった。
その静けさの中で、二人の声がほぼ同時に上がった。
「行きます」
レイと、ヴィオラだった。
マレーネの羽根ペンが止まった。
「……宝玉級と、金級」
「足りますか」
「足ります。足りすぎます」
マレーネは羽根ペンを走らせながら、小さく息を吐いた。
「申請は明日出します。上が渋ったら、規約を読み上げます」
「通るか」
「通します」
この人が通しますと言うときは、たいてい通る。
ヴィオラは、その話が終わるまで隅で剣を拭いていた。濡れた髪をそのままにしていたので、俺は布を投げた。受け取って、頭に載せて、それきり動かさなかった。




