待つあいだ
ヴィオラは、その日戻ってこなかった。
工房はいつも通りに開いた。列はいつも通りに伸びたし、鍋も三つ持ち込まれた。俺は道具を見て、癖を言って、直して、返した。それ以外にやることがない。
その日はなぜか湯沸かしが多かった。三つ持ち込まれて、うち二つは同じ隊のものだった。底の焦げ方が同じで、同じ火にかけて同じように放っておいたのが分かる。
「あんたら、水を沸かしたまま出かけるだろう」
「なんで分かるんですか」
「焦げが輪になってる。中身が減って、その位置で焼けたんだ。空焚きの一歩手前だな」
「すみません」
「謝る相手が違う」
俺は底を叩きながら言った。
「深いところで湯が沸かせなくて困るのはあんたらだ。俺は困らん」
「はい」
「湯沸かしは、叩けば戻る。人はそうはいかんからな」
言ってから、余計なことを言ったと思った。近ごろこれが多い。
問題は、ニナだった。
あの子は、働きすぎた。
朝から錆落としをはじめて、昼を過ぎても手を止めない。飯だと言われて食って、また戻る。夕方までに、普段の三日ぶんくらいの量を片づけていた。
俺はしばらく見ていて、それから、彼女の手から砥石を取り上げた。
「あ」
「終わりだ」
「まだできます」
「できるだろうな。だが終わりだ」
ニナは砥石に手を伸ばしかけて、止めた。
「……なんでですか」
「手が乾いてる」
俺は彼女の右手を見た。指の腹が白くなって、皮が浮いていた。水を使う仕事を、休みなく続けたときの手だ。
「明日も仕事がある。明後日もある。この手だと、明日は使えん」
「使います」
「使えないと言ってる」
ニナは黙った。黙って、自分の手を見た。
「あんた、いま何を考えて研いでた」
「……何も」
「そうだろうな」
俺は砥石を桶の水に沈めた。
「何も考えずに手を動かすのは、悪いことじゃない。俺も房にいたころ、そういう時期があった。ただ、道具を持ってやることじゃない。道具は考えてないやつの手を、そのまま覚える」
「覚える」
「あんたが今日つけた癖は、来年まで残るぞ」
ニナは、砥石を見て、それから手を下ろした。
「……はい」
「掃除しろ」
「え」
「そのへんを掃除しといてくれ。俺が作業する場所がない」
彼女は一瞬きょとんとして、それから、少しだけ笑った。
最初に会った日と同じことを言われたと気づいたらしい。
「はい」
箒を持って通路へ歩いていく背中を見ながら、トビーが小声で言った。
「あれ、わざとですか」
「何がだ」
「最初の日と同じ台詞です」
「そうだったか」
「そうです。僕、あの話を三回聞かされました」
「誰にだ」
「ニナさんにです」
俺は当て金を持ち上げた。三度も喋るような話ではない。
「ゲルトさん」
「まだあるのか」
「ニナさん、支店をやることになったら、たぶん同じことを言うと思います」
「掃除しろ、をか」
「はい」
言われて、少し考えた。俺があの日そう言ったのは、単に作業場所がなかったからで、それ以上の意味はなかった。意味のないものが伝わっていくのは、妙な気分だった。
夜、店をしまってボリスの屋台で飯を食っていたら、通路のほうから水の匂いがした。
顔を上げると、ヴィオラが立っていた。
全身がずぶ濡れだった。外套から水が滴っていて、髪が額に張りついている。靴の中まで水が入っているらしく、歩くたびに音がしていた。
「おい、あんた」
「戻った」
「見れば分かる。何をしてきた」
ヴィオラは答えずに、背中に回していた袋を下ろした。
布の袋で、水を含んで倍くらいの重さになっている。それを工房の床に置いて、口の紐をほどいた。
中から出てきたものを見て、俺は箸を置いた。




