聞こえるはずのないもの
試験の朝、ニナは工房に寄ってから行った。
新しい槍を背負って、防具は俺が背中の当て革を厚くしたやつで、髪を後ろでひとつに結んでいた。前髪が上がっていて、こういう顔をしていたのかと思った。
「行ってきます」
「ああ」
ボリスが飯を持たせて、トビーが水筒を持たせて、アニカが何か小さいものを握らせていた。ダンは何もせずに、拳を突き出していた。ニナはその拳に、自分の拳を軽く当てた。
通路の向こうへ消える背中を見ながら、俺は言うべきことを言い忘れたことに気づいた。
六年前と同じだった。
だから今度は、間に合ううちに言った。
「ニナ」
彼女が振り返った。
「行ってこい」
ニナは目を丸くして、それから笑って、走っていった。
ここから先は、あとで本人が話したことになる。
試験は、第九層から始まった。
受験者は五人で、試験官のドルグ・ヴァイスが後ろから付いてくる。順番に先頭を歩かされて、そのあいだの判断が見られる。索敵、進路の選択、退き際。戦うのは最後の一度だけだと言われた。
ニナの番が回ってきたのは、昼を回ったころだった。
彼女は歩いた。
いつも通りに歩いて、いつも通りに聞いた。
砂の擦れる音、天井から落ちる水の音、後ろの五人の足音、自分の呼吸。そのどれでもない音が、右の壁の向こうから聞こえた。
薄い音だった。壁一枚を挟んだ向こう側で、何かが体を引きずっている。
「右の壁の向こう、います」
ニナはそう言って、足を止めた。
誰も動かなかった。
試験官が前に出てきて、壁に耳を当てて、それから離れた。
「何も聞こえない」
「います。壁の向こうです」
「壁の厚みが分かるか」
「わかりません。でも、音が湿ってるので、たぶん水路の側だと思います」
ドルグ・ヴァイスは、しばらく彼女を見ていた。
それから、来た道を指した。
「迂回する。全員、下がれ」
迂回路を通っているあいだ、彼は何も言わなかった。
試験は、そのあと無事に終わった。ニナは最後の一戦でも問題なく動いたし、他の受験者を止める判断も一度した。自分でも、悪くなかったと思ったそうだ。
結果は、その日のうちに出た。
受験者五人が並ばされて、順番に呼ばれる。三人が合格して、二人が呼ばれた。ニナはそのうちの一人だった。
「鈴宮ニナ」
「はい」
「不合格だ」
彼女は、意味が分からなかったと言っていた。
ドルグ・ヴァイスは手元の板を見ながら、平坦な声で読み上げた。
「理由。第九層第三区画において、存在しない対象を申告し、隊を迂回させた。虚偽の索敵報告は隊全体を危険にさらす。以上」
「あの」
「何か」
「いました」
「確認されていない」
「でも」
「聞こえるはずのないものを聞こえたと言うのは、索敵ではない」
男はそこで初めて顔を上げて、ニナを見た。
「勘のいい人間は、大抵そこで死ぬ」
ニナは、そこで一度だけ食い下がった。
「確認しに行ってもらえませんか」
「何を」
「壁の向こうです。いま行けば、まだいるかもしれません」
「試験は終わった」
「わたしの合否は、もういいです。ただ、あそこに何かいるなら」
「いない」
男は板を閉じた。
「確認されていないものは、いないんだ」
ニナは何も言えなかった。
その日の夕方、彼女は工房に帰ってきた。
槍を背負ったまま、通路の入口のところで立ち止まって、なかなか入ってこなかった。




