ボリスの厨房
「ゲルトさんよ。ちょっと、うちの道具を見てくれねえか」
ボリスがそう言い出したのは、店じまいの後のことだった。
屋台の裏に回ると、そこが厨房ということになっていた。板を渡した台と、水甕と、吊るした鍋がいくつか。それだけの場所で、この男は毎日あれだけの飯を出している。
「包丁を出してくれ」
出てきたのは三本だった。大きいのと、中くらいのと、小さいの。どれも柄が黒ずんでいて、手の脂が染みこんでいる。
俺は大きいのを持ち上げた。
しばらく、持っていた。
「……ボリス」
「なんだ」
「これ、何年使ってる」
「酒場を始めたときからだから、まあ、長いな」
刃が細くなっていた。研いで研いで、もとの半分近くまで痩せている。峰から刃先までの幅が、包丁というより出刃の残骸みたいになっていた。
それでも、刃の線はまっすぐだった。
素人が研ぐと、必ずどこかで丸くなる。これは丸くなっていない。長い年月をかけて、同じ角度で、同じ力で研ぎ続けた形だった。
「あんた、研ぎは自分でやってるのか」
「他に誰がやるんだ」
「誰かに習ったか」
「習ってねえよ。最初の親方が、見て覚えろって人でな」
見て覚えろというのは、俺も房で言われた言葉だった。あれを言う連中は、たいてい自分の手順を説明できない。ニナが綴じ帳に書いていたことを思い出して、俺は少し黙った。
俺は柄を握ってみた。
右手の親指が当たるところだけ、木が凹んでいる。この男が包丁を握るとき、必ずそこに力を入れるということだ。長いことそうしてきたから、木のほうが形を覚えた。
「柄を替えるか」
「替えねえよ」
「凹んでる」
「凹んでるほうが持ちやすいんだ」
俺は柄を撫でて、それから頷いた。
「じゃあ、刃だけやる」
砥石を三種類出して、粗いところから順に当てた。刃が細くなっているぶん、力を入れると簡単に反ってしまう。指の腹で押さえながら、少しずつ送った。
ボリスは向かいに座って、それをずっと見ていた。
仕上げを当てて、水で流して、布で拭いて、渡した。
ボリスは受け取って、台の上に置いてあった葱を一本、何も言わずに切った。
音がしなかった。
板に当たる音だけがして、切る音がしなかった。
ボリスは葱を見て、包丁を見て、それから、手の甲を目に押し当てた。
「おい」
「うるせえ」
「泣くようなことか」
「うるせえって言ってんだろ」
俺は砥石を片づけた。
しばらくして、ボリスが洟をすすりながら言った。
「なあ、ゲルトさん」
「なんだ」
「うちの親方な、腕はよかったんだが、研ぎだけは下手だったんだよ」
「そうか」
「四十年、俺はこいつを下手なやり方で研いできたわけだ」
「下手じゃない」
俺は水甕の水を捨てた。
「まっすぐ減ってた。下手なやつの砥石は、そうはならん」
ボリスは何も言わなかった。
残りの二本も研いだ。中くらいのは刃先が丸くなっていて、小さいのは逆に尖りすぎている。この男は大きいのばかり使って、あとの二本を持て余していた。
「小さいのは使ってないな」
「使わねえな。細かいのは苦手だ」
「苦手なんじゃない。合ってないんだよ。柄が細すぎる」
俺が柄に布を巻いて太さを出してやると、ボリスはそれを受け取って、葱の青いところを刻んで、また黙った。
次の日、屋台の煮物の味が少し変わっていた。うまくなったのか、俺の気のせいなのかは分からない。




