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目はひとつしかない

行列が回らなくなったのは、そのころだった。


 朝いちばんに来た者が夕方まで待たされて、待ちきれずに帰る客が出はじめた。ニナが札の配り方を工夫し、点検だけの列を分け、簡単な直しをトビーに任せても、追いつかない。


 マレーネが綴じ帳を抱えて降りてきたのは、そういう日のことだった。


「支店を、お出しになりませんか」


「支店」


「浅い階に、もうひとつ工房を置くという意味です。登録は本店の分に付随させられますから、手続きは軽く済みます」


 彼女は綴じ帳を開いて、こちらに向けた。俺は読めないので、ニナが横から覗き込んだ。


「浅い階だと、灰級の人が来やすいです」


「そうだな」


「ここまで降りてこられない人、たくさんいると思います」


 それは前から考えていた。うちに来られる時点で、その探索者はある程度動けるということだ。本当に危ない連中は、ここまで来る途中で死ぬ。うちに並んでいる列は、生き延びられる側の列でしかなくて、並べない者の顔を俺は一度も見たことがない。


「浅いほうの候補はどこだ」


「第五層です。休憩所があって、人の通りもあって、ギルドの巡回が入ります」


「家賃は」


「登録工房の分店であれば、場所はギルドが用意します」


 条件としては、断る理由がなかった。


 だが、俺は首を振った。


「無理だ」


「なぜでしょう」


「俺の目がひとつしかないからだよ」


 マレーネが眼鏡の奥で瞬きをした。


「支店を出すってことは、俺が見ない道具が出るってことだ。俺が見ていないものに、俺の名前がつく。それは看板を貸すのと同じで、俺は看板を貸したくない」


「……ご自身が両方を回るというのは」


「回れない。今日の列を見ただろう」


 工房が静かになった。


 その静けさの中で、錆落としの音だけが続いていた。ニナだった。彼女は手を動かしたまま、顔を上げずに言った。


「わたしがやります」


 全員が振り返った。


 ニナは砥石を置いて、それから、もう一度言った。


「わたしが、浅いほうをやります」


「あんたな」


「わたし、まだ読めないです。ゲルトさんみたいには全然。でも」


 彼女は自分の手を見た。


「留め金が飛びそうかどうかは、分かるようになりました。柄の締まり具合も、たぶん」


「たぶんじゃ人が死ぬ」


「はい」


「分かってるなら、なんで言った」


 ニナは前髪の下から俺を見て、言った。


「分からないやつは、後ろに回して、全部ここに持ってきます」


 俺はしばらく黙っていた。


 それは、房のやり方だった。若いのに前段を任せて、判断のいるものだけ主任に上げる。二十三人を回していたころ、俺はずっとそうしていた。


 トビーが小さく息を吸ったのが聞こえた。あの子は房でその仕組みの下にいたから、いま何が起きたのか分かったんだろう。


 誰にも教えていない。


「……誰に教わった」


「見てました」


 ニナは、少しだけ胸を張った。


「ずっと見てたので」


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