数えたものが足りなかった
「戻ってきていただけませんか」
イレーネはそう言った。
俺は当て金を置いて、少し考えた。考えたというより、何をどう答えたものか分からなかった。
「無理だ」
「条件は、こちらで用意します。整備房の再開、人員は当時の規模、待遇は」
「そういうことじゃない」
「では、どういうことでしょうか」
俺は工房の中を、ぐるりと見た。
研磨台の脇でトビーが砥石を洗っていて、その向こうでアニカが鍋を磨いていて、ダンが資材を運んでいる。ニナが番号札の束を数え直している。ボリスの屋台から煙が上がっていて、列に並んだ四十人ばかりが、順番を待ちながら飯を食っていた。
棚には、明日取りに来ることになっている道具が二十七本、名札をつけて並んでいた。
「もう、ここの連中の道具を預かってるからだ」
「……それだけですか」
「それだけだよ」
イレーネは、しばらく黙っていた。
「恨んでいないのですか」
「恨むも何も、あんたの計算は合ってた」
「合っていませんでした」
彼女は懐から一枚の紙を出して、こちらに差し出した。
俺は受け取ったが、読まなかった。読めないからだ。
「……読み上げましょうか」
「頼む」
イレーネは少し戸惑ってから、紙を受け取り直して、読んだ。
「事故発生件数。整備房の閉鎖前、直近三年の年平均、四件。閉鎖後の六か月間、十一件。うち重傷が三件。腕の切断が一件」
俺は当て金の縁を、指で撫でていた。
「鑑定盤の判定に誤りはありませんでした。十一件すべて、事故直前の健全度は基準を超えていました。九十四、九十一、八十八、九十六」
「そうだろうな」
「なぜ、そうだろうななのですか」
「盤は道具しか見ない。人を見ないからだ」
「では、人を見る仕組みを作ります」
「作れるのか」
「作ります。整備士を戻して、盤と併用して、所見の伝達を規定にします。四か月前のあの一行が読まれなかったのは、伝達の決まりがなかったからです」
「決まりはあったよ」
イレーネが顔を上げた。
「要交換と書いたら、使用者に直接伝える。房の決まりだ。二十年やってきた」
「……記録に、ありません」
「書いてないからな。口で伝えてた」
彼女はしばらく黙っていた。
「なぜ、書かなかったんですか」
「書くようなことじゃないと思ってた。当たり前のことだからな」
言ってから、それが答えになっていないことに気づいた。当たり前だと思っていたことは、俺がいなくなった時点で消える。二十年ぶんの決まりが、俺の口の中にしかなかったという話でしかない。
俺は顔を上げた。
「あんたの計算が間違ってたわけじゃない。数えたものが足りなかっただけだ」
イレーネは紙を折って、しまった。
それから、しばらく工房の中を見ていた。トビーの手元を見て、棚の二十七本を見て、ボリスの屋台の煙を見ていた。
「ハウザーさん」
「なんだ」
「あなたの記録を、全部見ました」
「そうか」
「勤続二十年、整備件数およそ十二万件。担当装備における事故の発生件数は、ゼロでした」
俺は、当て金を持ち上げた。
「そうだったか」
イレーネが、こちらを見た。
「……ご存じなかったのですか」
「数えたことがない」
「二十年、一度もですか」
「起きなかったことは、数えようがないだろう」
彼女は何か言おうとして、口を開いて、そのまま閉じた。
それから深く頭を下げて、しばらく上げなかった。




