三時間
その日、列の五十八番に並んでいたのは、灰色の外套を着た三十くらいの女だった。
装備はひとつも持っていない。壊れたものも持っていない。ただ番号札だけを握って、列の中に立っていた。
イレーネ・カストは、そこで三時間を過ごした。
ここから先は、あとで本人が語ったことになる。
最初の一時間、彼女は前に並んでいる二人組の会話を聞いていた。
銅級の男女で、たぶん十代の後半だった。男のほうが胸当ての留め具を持ってきていて、女のほうは何も持っていない。付き添いらしかった。
「三十枚もするかな」
「するでしょ。留め具三つだよ」
「今月きついな」
「点検だけにしたら?」
「点検はただだけど、直さないと意味ないだろ」
「そっか」
それから二人は、ずっと数字の話をしていた。今月の稼ぎと、宿代と、薬代と、留め具三つの値段。二時間近く、その計算をしていた。
イレーネは、自分がその金額をどう扱ってきたかを思い出していた。
彼女が最後に決裁した書類では、整備房二十三名の人件費は年に金貨千百枚と記されていた。書類の上では、それは一行だった。一行の下に二十三人がいて、その二十三人の向こうに、留め具三つの値段を二時間計算する人間が何千人といた。
そのことを、彼女は知らなかったわけではない。
ただ、書類には書いていなかった。
二時間目に、列の前のほうで声が上がった。
「あんた、明日は行くな」
工房の男の声だった。
「え」
「明日それを付けて潜ると、腕が折れる。今日直す。座って待て」
言われた男が、座って待っていた。文句も言わず、値段も訊かず、ただ座っていた。
その後ろで、別の二人が話していた。片方が年配で、片方が若い。
「前はどこに出してたんです」
「アルゴノートの房だよ。あそこは外の人間も見てくれたんだ。銅貨で五枚だったかな」
「安いですね」
「安かった。閉まっちまったけどな」
「なんで閉まったんです」
「知らん。上のほうの話だろ」
イレーネは、そこで一度だけ目を閉じた。
イレーネは、その男の顔を見ていた。何かに感謝している顔ではなく、当たり前のことが起きたという顔だった。
三時間目、前の二人組の順番が来た。
男が胸当ての留め具を差し出すと、工房の男はそれを三秒見て、こう言った。
「留め具は二つでいい」
「え、三つ飛んでますけど」
「三つ目は要らない。ここは元から力がかからない場所だ。設計が悪い。二つでもつ」
「……安くなりますか」
「二十枚だ」
男が振り返って、連れの女と顔を見合わせていた。
その顔を見たとき、イレーネは自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
やがて、五十八番が呼ばれた。
彼女は列を出て、工房の前まで歩いた。
男は木箱に腰かけて、次の道具に手を伸ばしかけたところで、手を止めた。
六か月ぶりだった。
「……お久しぶりです」
「そうだな」
彼は、それ以上何も言わなかった。




