辞めてきました
「ゲルトさん」
トビーだった。
去年入ったばかりの、俺が最後に房で見た若い整備士だ。昇降機の前で頭を下げていたあの子が、旅装で十七階まで降りてきていた。
「なんでこんなところにいるんだ」
「探しました」
「探したって、あんた灰級だろう。十七階は」
「灰級です。三回死にかけました」
「馬鹿かあんた」
トビーは背負っていた荷を下ろすと、その場で膝をついて、頭を下げた。
「弟子にしてください」
俺は、しばらく黙っていた。
「顔を上げろ。地面が汚い」
「上げません」
「上げろ。話ができない」
トビーは頭を上げたが、目は合わせなかった。
「クランは」
「辞めてきました」
「辞表は」
「三日前に出しました。受理されました」
「馬鹿かあんた」
「二回目です、それ」
俺は道具箱に腰を下ろして、こめかみのあたりを揉んだ。
「うちは金がない」
「知ってます」
「危ない。十七階だ。魔物は出ないが、崩落はある」
「知ってます」
「俺は教えるのが下手だ。房にいたころ、あんたのことも怒鳴ってた」
「知ってます」
三回続けて知ってますと言われたので、俺は言うことがなくなった。
「トビー」
「はい」
「あんた、房で何年やった」
「一年と四か月です」
「短いな」
「短いです」
「一年四か月で辞めた人間を、俺は何人も見てきた。だいたいは、向いてなかったやつだ」
「僕は向いてます」
「なんでそう思う」
トビーはしばらく黙ってから荷を開いて、布に包んだものを取り出した。開くと砥石が三本入っていて、粗いのと、中と、仕上げが、どれも使い込まれて薄くなっていた。
「房が閉まってから二か月、毎日研いでました」
「何を」
「そのへんで拾った鉄です。研ぐものがなかったので」
俺は一本を取り上げて、面を親指で撫でた。まっすぐ減っていた。素人が研ぐと面はどこかで必ず丸くなるものだが、これは丸くなっていない。
「……そうか」
少し離れたところで、ニナとアニカとダンが、身を乗り出してこちらを見ていた。ボリスは屋台の向こうで肉を返しながら、耳だけこちらに向けていた。
「なあ、トビー」
「はい」
「なんでだ」
トビーは荷の紐を握りしめて、しばらく言葉を探していた。探し方が、六年前のレイに少し似ていた。
「房が閉まってから、うちのクランで、事故が三件起きてます」
俺の手が止まった。
「三件のうち二件は軽傷でした。もう一件は、腕です」
「誰だ」
「カイ・レンドル。二十歳の銅級です。左の籠手の留め鋲が飛んで、腕を折って、腱を切りました。深層隊に入ったばかりの子です」
カイ・レンドル。
名前に覚えがあった。ある、というより、四か月前に俺が点検簿に書き込んだ名前だった。左肩を庇う癖のある子で、留め鋲に応力が寄っているから早めに交換しろと、たしかに書いた。
「鑑定盤は、九十四と出したそうです」
トビーは顔を上げて、まっすぐこちらを見た。
「ゲルトさん。あの子の点検簿、四か月前の欄に、あなたの字で交換を推奨するって書いてありました。誰も読んでませんでした」
俺は何も言わなかった。
言葉が出てこなかったわけではなく、出そうとしたものを全部、飲み込んだ。
工房の隅で、ナットがボルトをことりと置いて、キチ、と鳴いた。




