書類が読めない
結論から言うと、俺は書類が読めない。
字が読めないわけではない。一文字ずつは読める。ただ、それが十行を超えたあたりで頭の中の何かが降参して、文字が虫の行列に見えてくる。二十年、房で書類仕事をトビーたちに押しつけてきたのは、そういう理由だった。
「ゲルトさん、第三項のところ、印を」
「どこだ」
「ここです。いま指してます」
「その上のやつは何だ」
「連帯保証の免除条項です」
「なんで免除されるんだ」
「一等免状が保証の代わりになるからです」
ニナが横から覗き込んで、あ、ここ数字が違います、と言った。
この子は書類が読める。学舎は途中でやめたと言っていたが、字はきれいだし、数の並びを見る目が速い。俺が三度読み返しても気づかなかった誤りを、横から一度見ただけで拾った。
「ニナ、あんた書類できるのか」
「母さんが、その、寝てるので、薬の請求とか、家賃とか、全部わたしが」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、あんたが読め。俺は印を押す」
「え、いいんですか、こんな大事な」
「大事だから、読める人間が読むんだ」
ニナは綴じ帳を受け取って、しばらく固まってから、すごく丁寧に読みはじめた。
読みながら指で行を追って、分からない語が出てくると小さく口の中で繰り返している。三行進むごとに一度戻る読み方で、これはたぶん、間違えたら暮らしが終わる書類ばかりを読んできた人間の読み方だった。
問題は金だった。
登録料が金貨三十枚、資材搬入路の敷設が四十枚、最低限の設備一式でおよそ二百枚。合計二百七十枚に対して、俺の全財産は銅貨で四百枚ほどしかない。金貨に直せば四枚だ。
その計算を聞いていたレイが、外套の内側に手を入れた。
「先生。わたしが出します」
「断る」
「即答すぎませんか」
「即答だよ。弟子に金を借りる師匠がどこにいる」
「弟子だと思ってくださってるんですね」
「揚げ足を取るな」
レイはしばらく黙って、それからマレーネのほうを向いた。
「マレーネさん。この工房は、整備の代金を前もっていただくことはできますか」
「……できます。前払い契約は装備管理令の範囲内です」
「では」
レイは俺のほうに向き直って、にっこり笑った。この笑い方は昔から油断ならない。
「わたし、十年ぶんの整備代を前払いします」
「おい」
「宝玉級の剣二本、週一回、十年ぶんです。相場でいくらになりますか、マレーネさん」
「……概算で、金貨で三百枚を超えます」
「それでは足りませんね。もう五年足します」
「待て。待てと言ってる」
「先生」
レイは、まっすぐこちらを見た。
「六年前、わたしは払うべきものを払わずに出ていったんです。今度は先に払わせてください」
俺は何か言い返そうとして、口を開いて、閉じた。
二十年、鉄としか喋ってこなかった男に、こういう場面で気の利いたことが言えるわけがない。
ボリスが屋台の向こうで盛大に噴き出していた。
マレーネは羽根ペンを構えたまま固まっていた。
「あの、これは記録上、どう処理すれば」
「前払い契約です」
「金貨で四百五十枚を超える前払い契約というものを、わたしは見たことがないのですが」
「では、初めてですね」
レイはにこにこしていた。俺は道具箱に腰を下ろして天井を見上げた。十七階の天井は岩で、二百年ぶんの煤が黒くこびりついている。




