カリッと、ひと口
「あなたですか。ここに、弱った腹でも食べられる飯を出す料理人が来たって、聞いて……!」
前掛けをつけたままの女が、息を切らして土間に立っていた。髪を振り乱し、目の縁が赤い。何日も、よく眠っていない顔だった。
わたしは、汲みかけの水桶を置いて、その人のほうへ向き直った。継いだばかりの食堂は、まだ暖簾も名前もない。それでも、温かいものを出す店ができたと聞いて、藁にもすがる思いで駆けてきたのだろう。
「落ち着いてください。まず、座って。話は、それからでも」
土間の隅の、ひとつだけ埃を払っておいた椅子をすすめると、女は、崩れるように腰を下ろした。そうして、堰を切ったように話しはじめた。
子供の名は、ノノ。七つになる女の子だという。
「あの子が……ノノが、もう何日も、ろくに食べないんです」
ノノのお母さんは、膝の上で、前掛けを握りしめていた。
「あの子は、昔から、食べられるものがほんの少しで。固いパンの、端っこくらい。あとは、ほとんど口にしない子でした。それでも、これまでは、なんとか……。でも、だんだん痩せてきて、このままじゃ、いけないと思って」
お母さんは、うつむいた。
「ちゃんと、栄養のあるものを食べさせなきゃと、煮物や、茹でた野菜を、毎日作りました。なのに、口に入れたとたん、うえっ、て顔をして、出してしまう。それでも、体のためだからと、無理にでも食べさせようと、叱って……。そうしたら、前よりもっと、何も食べなくなって。もう何日も、まともに口にしていないんです」
医者にも、診せたという。けれど、どこも悪くない、と言われた。悪くないのに、食べない。それが、いちばんこわいのだと、お母さんは言った。
「近所の人は、わがままだ、甘やかすからだって。あたしの作り方が、下手なのかもしれない。味を変えても、品を変えても、だめで……」
お母さんの声が、震えた。
「お願いします。あの子に、何か……ひと口でも、食べさせてやってください」
───
わたしは、すぐには返事をしなかった。
ひと口でも食べさせてくれ、と言われて、はい、と請け合うのは、たやすい。けれど、それは、料理人の仕事ではない。なぜ食べないのかを、見ないうちに鍋を握るのは、行き先を聞かずに馬を走らせるのと、同じだった。
「その子を、ここへ連れてきてもらえますか」とわたしは言った。「無理に、食べさせはしません。ただ、見せてほしいんです。あの子が、何なら口にして、何をいやがるのか」
お母さんは、不思議そうな顔をしたが、それでも、頷いて家へ走った。
───
しばらくして、お母さんは、子の手を引いて戻ってきた。
ノノは、痩せた、小さな子だった。お母さんの言うとおり、腕が細い。わたしを見ると、お母さんの後ろに、半分隠れた。叱られると思っているのか、唇を、固く結んでいる。
わたしは、しゃがんで、目の高さを合わせた。
「こんにちは。今日は、食べなさいって、言わないからね」
ノノの肩が、ほんの少しゆるんだ。
わたしは、ノノを椅子に座らせて、いくつか、小さなものを皿にのせて出した。固く焼けた、パンの耳。さっき、竈の鉄板にこびりついて、こんがり焦げた、穀物の粉のかけら。それから、ゆうべ、ロタ婆が分けてくれた青菜を、さっと茹でたもの。
わたしは、何も言わずに、少し離れて見ていた。
ノノは、しばらく、皿をにらんでいた。それから、パンの耳をつまんだ。固いところを、前歯で、こり、こり、と齧る。焦げたかけらも、おそるおそる口に入れた。カリ、と鳴った。ノノの目が、わずかに開いた。
けれど、茹でた青菜には、手をつけない。わたしが、匙で、ひと口ぶん、口元へ運んでみると、ノノは、いやいやをするように首を振った。それでも、お母さんの、すがるような目に負けて、ひと口、含む。
とたんに、ノノの顔がゆがんだ。口の中のものを、手で押さえる。
飲み込め、ない。ぐにゃり、とした、その感じに、喉が縮こまっている。
───
それを見て、わたしには見えた。
この子は、味が嫌いなんじゃない。
固いものは、齧る。カリッとしたものには、目を開く。けれど、煮たもの、茹でたもの——口の中で、ぐにゃり、ぬるり、と崩れるものを、いやがる。あの、舌の上でぐずぐずと潰れていく感じが、こわいのだ。飲み込むのが、こわい。
わがままでは、なかった。好き嫌いでも、なかった。ただ、この子の口は、やわらかく崩れるものを、まだ受け入れられずにいる。それだけのことだった。
ならば、やることは、ひとつだ。
嫌いな素材を、食卓から消すのではない。素材の、形と、食感のほうを、変えてしまえばいい。ぐにゃり、を、カリッ、に。土の中で育った、あの根菜も、青菜も、火の入れ方ひとつで、まるで別のものになる。
「少し、待っていてね」とわたしは言った。「こわくないものを、作るから」
───
わたしは、竈に火を入れた。
ロタ婆が分けてくれた根菜を、皮ごと、おろし金ですりおろす。すりおろしてしまえば、煮たときの、あの、繊維のぐにゃりは、消える。残るのは、根菜の、甘い、こまかな粒だけだ。
すりおろした根菜は、水気が多い。これを、そのまま焼いても、べたりとして、ぐにゃの素になる。だから、清潔な布に取って、ぎゅっと絞る。手のひらに力をこめて、何度も。絞れば絞るほど、焼いたときに、カリッとなる。水を、どれだけ追い出せるか。この一皿の勝ち負けは、ほとんど、ここで決まる。
青菜は、葉のところを、ごく細かく刻んだ。葉のぬめりが、こわいのなら、葉の形そのものを、無くしてしまえばいい。刻んで、刻んで、緑の、こまかな粒にする。これも、布で水気を取る。
絞った根菜と、刻んだ青菜を合わせる。塩を、ひとつまみ。つなぎに、穀物の粉を、ほんの少しだけ。入れすぎると、粉っぽく重くなる。素材どうしが、かろうじて手を繋ぐ、ぎりぎりの量。
それを、薄く、薄く、平たくのばす。厚く焼いては、いけない。厚みがあると、外は焼けても、中に、火の通らないぐにゃりが、残ってしまう。薄ければ薄いほど、端から端まで、まんべんなく、カリッと火が通る。
油をひいた鉄板に、薄くのばした生地を、そっと置いた。
じゅう、と音がして、香ばしい匂いが立ちのぼる。
ここで、焦って、触ってはいけない。焼き色が、しっかりつくまで、動かさない。早く、ひっくり返そうとすると、生地は、崩れて、また、あのぐにゃりに、戻ってしまう。待つ。縁が、ちりちりと、きつね色に縮れて、香ばしさが、つんと立つまで。
頃合いを見て、返す。裏も、同じだけ、こんがりと。両面が、薄い、こがね色の一枚になった。
指で、端を、かるく叩いてみる。こつ、と、固い音がした。中まで、水気が抜けて、カリッと焼けた、音だった。
───
皿にのせて、ノノの前へ運んだ。
ノノは、その、こんがりした一枚を、じっと見ていた。匂いに、鼻が、ひくりと動く。けれど、また、ぐにゃりが来るのではないか、と、警戒する目でも、あった。
わたしは、ひと言だけ言った。
「カリカリだよ。さっきの、固いパンと、おんなじ」
ノノは、おそるおそる、手を伸ばして、端を、ひとかけ折った。こり、と、小気味のいい音がした。それを、口に運んで——
カリッ。
ノノの目が、まんまるに開いた。
もう、ためらいは、なかった。二口目を、大きく齧る。カリッ、カリッ、と、軽い音が続いた。香ばしくて、ほんのり甘い。固いのに、噛むと、ほろりとほどける。あの、こわいぐにゃりは、どこにもなかった。
ノノは、止まらなかった。両手で持って、端から、夢中で齧っていく。あっという間に、一枚が消えた。
「……もっと」
ノノが、小さな声で言った。お母さんが、口元を、手で押さえた。
───
二枚目を焼きながら、わたしは、ノノに聞いた。
「ねえ、これ、何で、できてると思う?」
ノノは、首を振った。見当もつかない、という顔だった。
「じつはね」とわたしは言った。「それ、ノノが、いちばん苦手だった、あれなんだよ。煮ると、ぐにゃっとなる、あの、根っこと、青いやつ」
ノノが、固まった。手に持った、二枚目の、こんがりした端を見つめる。
「これが……?」
「そう。同じ、畑のもの。形と、焼き方を変えただけ」
ノノは、しばらく、信じられない、という顔で、その一枚と、わたしの顔を見比べていた。それから、もう一度齧った。カリッ、と鳴った。今度は、たしかめるように、ゆっくりと。
うん、と、ノノは頷いた。「これなら……こわくない」
───
お母さんは、椅子に座ったまま、肩を震わせていた。
「あの子……野菜が、嫌いだったわけじゃ、なかったんですね」
「ええ」とわたしは答えた。「味が、いやだったんじゃない。口の中で、ぐにゃっと崩れる、あの感じが、こわかっただけ。だから、その感じを無くしてやれば、ちゃんと食べられる」
わがままでも、病気でも、なかった。お母さんの料理が、下手だったわけでもない——わたしが、そう言うと、お母さんは、とうとう、声を上げて泣いた。長いあいだ、ひとりで抱えていたものが、ほどけた、泣き方だった。
「すみません、わたし、あの子を、何度も、叱って……」
「これから、ですよ」とわたしは言った。
偏食が、これで、すっかり治るわけではない。やわらかいものは、まだ、しばらく、こわいだろう。それでも、こわくないものが、ひとつ増えた。食べられるものが、ひとつ増えた。棒のように細い腕に、これから、少しずつ肉がつく。その、はじまりの一皿になれば、いい。
「また、焼きますから。いつでも、おいで。それから——」
わたしは、すりおろした根菜を絞る、その手のことや、薄く、薄く、のばす、その加減を、お母さんに教えた。家でも、作れるように。料理人が、一度、食べさせて、終わり、ではない。その手が、家の竈に移っていって、はじめて、ひと皿は、その家のものになる。
「それに、これで、終わりじゃありません」と、わたしは続けた。「いまは、カリッとしたものを、こわがらずに食べられる。それで、もう十分。慣れてきたら、少しずつ、ほんの少しずつでいいんです。外は、カリッのまま、中を、ほんのちょっとだけ、やわらかく焼く。次は、もう少しだけ。そうやって、こわくないものの、すぐ隣まで、半歩ずつ。いつか、煮たものも、食べられるようになります。子供の口は、ゆっくり、広がっていきますから」
ぐにゃり、という壁を、力ずくで壊す必要は、ない。焦って押し込めば、また、こわくなる。お母さんが、よかれと思ってやってしまったのが、それだった。壁は、壊すのではなく、端から、少しずつ低くしていく。こわくないものを、足がかりにして。料理は、そういう、気の長い仕事でもある。一年かけて、食べられるものが、ひとつ増えれば、それで、上等だった。
お母さんは、わたしの言葉に、何度も頷いていた。もう、思いつめた顔では、なかった。
───
帰りぎわ、ノノが、土間で、ふと振り返って聞いた。
「ここ、なんてお店?」
「まだ、名前がないの」とわたしは言った。
「ないの?」ノノは、目を丸くした。「へんなの」
へんなの、と言われて、わたしは、笑った。たしかに、店なのに、名前がない。そのうち、付けよう、と思った。けれど、いまは、まだいい。名前より先に、ここで、食べられるものが、ひとつ、ふたつと、増えていく。それが、先だ。
お母さんとノノが、帰っていく。ノノの手には、布に包んだ、焼きたての一枚。明日の、朝のぶんだ。戸口で、ノノが、もう一度、こちらを振り返って、小さく手を振った。
───
それから、二日が過ぎた。
ノノのお母さんは、約束どおり、また来てくれた。けれど、今度は、思いつめた顔では、なかった。土間に入るなり、少し、言いにくそうに切り出した。
「あの……料理人さんに、もうひとつ、聞いてほしいことが、あって」
自分のことでは、ない、とお母さんは言った。二軒先に住む、年寄りの夫婦のことだ、という。
「あのご夫婦ね、もう何年も口をきかないんですよ。つまらない意地の、張り合いで。……でも、昔はね。あなたが、ここを継ぐ、ずっと前。まだ、前の料理人がいた頃ですよ。この店へ、毎週きまって、二人そろって来てたんです。向かいあって、同じものを食べてね。それが、店が閉まって、行く場所もなくなって。そのうち、家でも口をきかなくなって……。いまじゃ、あの二人が、一緒にご飯を食べたところなんて、村の誰も、思い出せやしない」
わたしは、布巾で手を拭きながら、その話を聞いていた。
口をきかない、年寄りの夫婦。かつては、毎週、わたしが継いだ、この店で、向かいあって、同じものを食べていた、二人。——その店が、いま、また灯った。ならば、もう一度、二人を、同じ卓に座らせることが、できるだろうか。それは、ひと皿で、どうにかなるものだろうか。いや、なるとも、ならないとも、まだ分からない。ただ、ひとつ、確かなことが、あった。
わたしの、名前のない食堂に、二人目の客の話が、もう舞い込んでいる。
(第三話へ続く)




