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3/3

向かいあって、ひとつの鍋

 その客は、暖簾のない戸口に、しばらく立っていた。


 背の高い、痩せた年寄りだった。白い眉の下から、店の中をうかがっている。入りたいのか、入りたくないのか、自分でも決めかねている。そんな立ち方だった。


「どうぞ、入ってください」とわたしが声をかけると、年寄りは、ばつが悪そうに咳払いをして、土間へ足を踏み入れた。


 トバ、という名だと、あとで知った。二軒先のお母さんが言っていた、あの仲違いの老夫婦の、片方だった。


 トバ爺は、椅子に座ると、何も頼まなかった。ただ、店の中を、ゆっくりと見回している。古い竈。煤けた梁。壁の、染みのひとつひとつ。懐かしいものを、確かめるような目だった。そうして、その目が、ふと、自分の向かいの、空いた椅子の上で止まった。


 しばらく、そこから動かなかった。


───


「ここはね」と、トバ爺は、ぽつりと言った。「昔、よく来たんだ」


 前の料理人がいた頃のことだ、という。


「うまい茸の鍋を出す店でね。秋になると、それが楽しみで。女房と二人、毎週、ここへ来たもんだ。この席に、わしが座って、向かいに、あれが座って」


 あれ、と言うとき、トバ爺の声が、少し固くなった。


「……もう、何年も口をきいてない。つまらん意地でな。店も、閉まっちまったし。あの鍋を二人で食ったのが、いつだったか、もう思い出せん」


 わたしは、黙って聞いていた。


 茸の鍋。向かいあって座る、二人。閉じた店。——わたしが、いま立っている、この場所で、それは、起きていたことだった。


「その鍋、どんなものだったか、覚えていますか」とわたしは聞いた。


 トバ爺は、ふん、と鼻を鳴らした。


「茸を、ぶつ切りにして、根菜とことこと煮るんだ。茸ってのは、軸だよ。あの、こりこりした歯ごたえ。あれが、いちばんうまい。……だが、あれは」と、トバ爺は、向かいの椅子を、顎で示した。「傘のほうがいいと、抜かしやがる。やわらかけりゃいいってもんじゃ、ないんだ。何年言っても、分からん女でな」


 吐き捨てるように、そう言って、トバ爺は立ち上がった。何も食べずに、帰っていく。けれど、戸口で、一度だけ振り返って、また、あの空いた椅子を見た。


───


 その次の日、わたしは、二軒先のその家を訪ねた。


 サナ婆は、縁側で、ひとり、繕い物をしていた。トバ爺の女房だ。わたしが、店の新しい料理人だと名乗ると、皺の中の目が、すっと細くなった。


「うちの頑固爺が、店に行ったろう」と、サナ婆は、見透かしたように言った。「言っとくけどね。あの鍋を、あたしが傘がいいって言うのはね、軸なんて、煮ても煮ても固いからだよ。年寄りの歯にゃ、傘の、あの、つるんとしたところが、いちばんやさしいんだ。それを、あの人は、歯ごたえだ、滋味だって……。こっちの歯のことなんざ、考えもしない」


 言い終えて、サナ婆は、ふい、と横を向いた。


 わたしは、二人の言い分を、胸の中で並べてみた。


 軸が、うまい。傘が、うまい。——どちらも譲らない。何年も、同じことで言い合って、とうとう、口をきかなくなった。傍から見れば、ばかばかしい、意地の張り合いだ。失われた鍋を、もう一度、二人の前に出せば、丸くおさまる。きっと、誰もが、そう思うだろう。


 わたしも、はじめは、そう思っていた。


───


 その鍋に使う茸を、わたしは知らなかった。村の畑にも、市場にもない。トバ爺に聞くと、山のものだ、と言った。


「夜明茸さ。日が差すとな、傘を閉じちまう。だから、明るくなる前に採らなきゃ、ならん。前の料理人は、それこそ、毎朝、暗いうちから山へ入ってたよ」


 次の朝、わたしは、まだ星の残るうちに起きた。


 案内を頼んだのは、ドルフという、村の猟師だった。無口で、大きな背中の男だ。山の道を、迷いなく、先へ、先へと登っていく。木々の匂いが、夜の冷たさの中に、濃く立ちこめていた。


 村は、まだ眠っていた。吐く息が、白い。どこか遠くで、夜の鳥が、一声鳴いて、あとは、落ち葉を踏む、二人の足音だけがつづいた。登るうちに、体の芯が、じんわりと暖まってくる。星が、梢の隙間で、まだ、ちかちかと瞬いていた。


「あそこだ」と、ドルフが低く言った。


 倒れた古木の根方に、それは生えていた。傘を、いっぱいに開いた茸が、ほの白く、闇の中に浮かんでいる。手を触れると、傘の裏が、しっとりと冷たかった。


「日が当たると、すぼまる」と、ドルフが言った。「いまのうちだ」


「ぜんぶは採るな」と、ドルフは付け加えた。「いくつか、残しておけ。来年も、ここに生えるように」


 山の恵みを、根こそぎにしてはいけない。短い言葉だが、土地と長くつきあう者の、知恵だった。わたしは、頷いて、よく太って、傘をいっぱいに開いたものだけを、選んで採った。細いものや、まだ小さいものは、土に残しておく。


 わたしは、根元に指を添えて、ねじるように、一本ずつ採っていった。茎は、思いのほか太く、こりこりと締まっている。これが、トバ爺の言う、軸だ。傘は、つるりとやわらかい。これが、サナ婆の言う、傘だ。


 ひとつの茸に、二人の好きなものが、両方ついている。


 東の空が、白みはじめた。光が、谷を、なめるように降りてくる。すると、まだ採らずにいた茸が、ひとつ、またひとつと、ゆっくり傘をすぼめていった。閉じてしまった茸は、もう、別の、つまらないものに見えた。


 ほんの、いっときだけ、ひらいている。その、夜明けの間だけのひとつかみを、わたしは、籠に収めた。前の料理人も、毎朝、こうして、暗い山を登っていたのだろうか。なぜ、店をやめてしまったのだろう。——その答えは、まだ、どこにもなかった。


───


 店に戻って、わたしは、鍋を仕込んだ。


 夜明茸は、洗いすぎない。水に長くつけると、せっかくの香りが逃げてしまう。土を、はらう程度に、さっと。それから、傘と軸を切り分けた。


 軸は、ぶつ切りにして、早めに鍋へ。固いところは、ことこと、時間をかけて煮る。煮るほどに、こりこりとした歯ごたえの奥から、滋味がにじみ出てくる。トバ爺の、好きな部分だ。


 傘は、最後に、そっと沈める。火を入れすぎれば、あの、つるりとした口当たりが崩れてしまう。さっと温める程度。やわらかく、やさしい。サナ婆の、好きな部分だ。


 どちらかを選ぶのではない。軸は軸で、いちばんうまく。傘は傘で、いちばんうまく。ひとつの鍋の中に、二人の「正しい」を、両方入れる。どちらが正しいかを決めるのは、わたしの仕事ではなかった。


 根菜を加え、塩で味をととのえる。湯気が、茸の深い香りを運んで、店じゅうにひろがった。


 指の先で、つゆを味見した。茸の滋味と、根菜の、ほのかな甘み。悪く、ない。むしろ、よくできているほうだ。——けれど、どこか、これでいいのか、と引っかかるものが、あった。何が足りないのか、その正体は、まだつかめなかった。


 わたしは、二人に、別々に伝えた。今日の夕、あの鍋を出します、と。お二人の席を用意してあります、来るか来ないかは、お任せします、と。それ以上のことは、言わなかった。


───


 日が暮れて、先に来たのは、トバ爺だった。


 昨日と同じ椅子に座って、むっつりと、湯気の立つ鍋を見ている。やがて、戸が開いた。サナ婆が、立っていた。


 二人は、目を合わせなかった。サナ婆は、何も言わずに、向かいの椅子に——何年も空いていた、あの椅子に腰を下ろした。鍋を、ひとつ、はさんで。


 わたしは、二つの椀に、鍋をよそった。軸も、傘も、どちらも、たっぷりと。


 しばらく、二人とも、箸をつけなかった。意地と意地が、湯気の上でにらみあっている。けれど、香りには勝てなかった。先に、トバ爺が箸を取り、続いて、サナ婆も、椀を引き寄せた。


 そして——それは、二人とも、考えるより先だった。


 トバ爺の箸が、自分の椀から、つるりとした傘を、ひとつつまみ上げ、向かいの、サナ婆の椀へ、そっと入れた。同じ時、サナ婆の箸が、こりこりした軸を、ひと切れ、トバ爺の椀へ移していた。


 二人の手が、止まった。


 顔を上げる。何年ぶりかに、まっすぐ向かいあった。


 軸がいい、傘がいい、と言い合ってきた。譲らなかった。けれど、二人とも、ずっと、相手の好きなほうを、自分の椀から選り分けて、渡していた。言い合いは、けんかではなかった。それは、この二人の、不器用な、与え合いのかたちだった。体が、意地より先に、それを覚えていた。


 サナ婆の目に、見る間に、涙が盛り上がった。トバ爺は、ぐっと口を引き結んで、それから、ぼそりと言った。


「……やっぱり、お前にゃ、傘だな」


「あんたは、軸が好きだろ」と、サナ婆が鼻をすすった。


 二人は、それから、何も言わずに、ただ、向かいあって、同じ鍋を食べた。湯気の向こうで、何年もの固いものが、ゆっくりほどけていくのが、見えた。


───


 椀が空になるころ、トバ爺が、ふと、つぶやいた。


「……うまい。うまいが」


 そこで、言葉を切って、しばらく考えていた。


「あの人のと、少し違うね」と、サナ婆が、あとを引き取った。咎めるふうでは、なかった。むしろ、なつかしむような声だった。「似てる。よく似てる。でも、あの鍋には、もう一つ、何か……うまく言えないけど、何かが、あったんだよ」


 もう一つ、何か。


 わたしは、その言葉を、胸に留めた。軸も、傘も、同じように煮た。だしも、塩も、ていねいに。それでも、二人が覚えている、あの味には、届いていない。前の料理人が、この鍋に入れていた、もう一つの、何か。それが、何なのか、わたしには、まだ分からなかった。


 けれど、それは、今日の敗けでは、なかった。二人は、もう一度、同じ卓についた。それで、十分だ。足りない一つは、これから探せばいい。


 帰りぎわ、サナ婆が、戸口で振り返って言った。


「あの味のことなら……村はずれの、ベルじいさんが、何か知ってるかもしれないよ。あの人は、昔から、この店のいちばんの常連だったから」


 二人は、肩を並べて——まだ、少しぎこちなく、けれど、たしかに、並んで、夜の道を帰っていった。


 わたしは、空になった鍋に残った、夜明茸の香りを嗅いだ。


 もう一つ、何か。その正体を確かめないかぎり、この店は、本当には灯らない。そんな気が、なぜだか、していた。


(第四話へ続く)


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