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包丁ひとつと、小さな鍋

 包丁ひとつと、小さな鍋。それが、わたしの全部だった。


 流しの料理人として、いくつの村と街道を歩いてきただろう。別の世界で、わたしは大きな店の料理人だった。毎日くたびれるほど鍋を振って、同じ味を、同じ早さで、いくつでも出した。それが腕だと言われた。けれど、その厨房を、自分の居場所だと思えたことは、一度もなかった。


 気がついたら、この世界の街道に立っていた。なぜ、とは、もう考えない。以来、わたしは、料理の腕ひとつで、旅を続けている。自分の店も、帰る場所も、まだない。あるのは、この手と、包丁と、背負った小さな鍋だけ。それでも、不思議と、心細くはなかった。包丁を握っているあいだだけは、自分がまだ料理人でいられたから。


 その日、わたしは、マレ村へ続く道を歩いていた。秋の、よく晴れた日だった。


 道の脇に、人が倒れていた。


───


 背の高い男だった。大きな荷を背負ったまま、糸が切れたように、道端に崩れている。外套は土埃で白く、足には、何日も歩き続けた者の、無理の跡があった。


 わたしは、駆け寄って、肩に触れた。息はある。男は、うっすらと目を開けた。


「……すまねえ。腹が、減って、動けねえ」


 声が、掠れていた。


「何か、食べられますか」


 男は、力なく首を振った。「三日、まともに食ってない。なのに、いざ食おうとすると、喉が、受けつけねえ。匂いだけで、もういい、ってなる」


 わたしは、男の顔を見た。目の下が落ち窪み、頬がこけている。空腹で、なお食べられない。それは、ただの空腹より、ずっと重い。胃も、心も、疲れきって、固く縮こまっている。こういう人に、固いものや脂っこいものを口に押し込むのは、いちばんやってはいけないことだった。


 放ってはおけなかった。料理人だから、というのもある。けれど、それより先に、目の前で食べられずにいる人を、見過ごせなかった。


「まず、これを。少しずつ、口に含んでください」


 背負った水筒の栓を抜き、男の口元へ運んだ。食べ物は受けつけなくても、水なら、まだ通る。空きっぱなしの胃に、いきなり物を入れてはいけない。冷えた鍋を、いきなり強火にかけないのと同じだ。まず、湿らせて、温める。それからでないと、どんな滋味も、入ってはいかない。


 男は、喉を鳴らして、ひと口、ふた口、水を飲んだ。


「……水は、入る」


「それで、いいんです」とわたしは言った。「ちゃんと食べられるものは、これから作ります。少し、時間をください」


 わたしは、村のほうへ走った。火と、水と、いくらかの素材が要る。鍋はあるが、それだけでは足りなかった。


───


 畑の脇で、年寄りの女に出会った。


 腰の曲がった、けれど目の鋭い老女だった。村の世話役で、ロタ婆という、とあとで知った。わたしが、道に行き倒れの男がいること、すぐに食べさせたいことを話すと、婆さんは、それ以上は問わずに、動いてくれた。


「うちの竈を使いな。水は井戸だ」


 ロタ婆は、家の裏から、野鳥の骨をいくらかと、畑の根菜を持ってきてくれた。骨は、捨てるところだと言った。けれど、弱った人をいちばん助けるのは、舌を驚かせる味ではなく、骨からひく、目に見えない滋味のほうだった。


「あんた、あの男に、これで何を作る気だい」とロタ婆が聞いた。


「滋味の、粥を」とわたしは答えた。「弱った胃でも、すっと入るものを」


 婆さんは、ふん、と鼻を鳴らして、それから、わたしの手元を、じっと見ていた。


───


 骨を、水を張った鍋に沈め、弱い火にかける。


 ここで、煮立たせては、いけない。ぐらぐらと沸かすと、だしは濁って、骨の雑味まで出てしまう。表面が、かすかに揺れる程度。鍋の底から、小さな泡が、ひとつ、またひとつと、ゆっくり上がってくるくらい。その火加減を、わたしは指で探した。鍋の縁に手のひらをかざし、立ちのぼる湯気の熱さで、温度を測る。前の世界では、火力を、つまみの数字で合わせた。ここには、つまみも、数字もない。けれど、手のひらが、覚えていた。熱すぎず、ぬるすぎず。湯気が頬にやわらかく触れる、その一点。


 しばらくすると、灰汁が、白く濁った膜になって浮いてくる。それを、柄杓の背で、そっとすくって捨てる。一度では足りない。浮いてくるたびに、何度も。澄んだだしは、急いては引けない。急げば、濁る。料理には、待つことでしか進まない工程がある。これは、その一つだった。


 だしが澄むのを待つあいだ、わたしは、ぬるい白湯を、男のもとへ運んだ。空の胃を、先に温めておくためだ。料理に下ごしらえがあるように、弱った体にも、下ごしらえが要る。白湯は、すっと、男の喉を通っていった。


 待つあいだに、根菜の皮を、薄く剥いた。皮のすぐ下が、いちばん甘いから、厚く剥いてはもったいない。大きめの、ひと口より少し大きいくらいに切る。小さく刻まないのは、煮崩れる手前まで柔らかく炊いたとき、その大きさが、舌の上でほろりと崩れて、いちばん甘く感じるからだ。固いものは、弱った胃には、それだけで負担になる。


 だしが澄んだころ、骨を引き上げ、根菜を沈めた。ことことと、湯気が、骨の匂いから、根菜の甘い匂いへ、ゆっくり変わっていく。芯まで火が通ったころ、ロタ婆が分けてくれた穀物を、ひとつかみ加えた。米によく似た、小さな粒だ。とろりと、輪郭がほどけるまで炊いて、粥にする。


 塩は、ほんの少し。指の先で、つまむほど。味を立てるためではなく、素材の甘みを、すっと前に出すぶんだけ。塩は、引き算の調味料でもある。入れすぎないことで、隠れていた甘さが、立ちあがる。


 指の先で、味を見た。甘い。骨の滋味と、根菜の甘みが、湯気の中で、ひとつにほどけている。とがったところが、どこにもない。これなら、と思った。


───


 椀によそって、男のもとへ運んだ。ロタ婆が、男を木陰に座らせ、背を支えてくれていた。


 男は、湯気を、しばらく見ていた。食べられるだろうか、という顔だった。それから、おそるおそる匙を取って、ひとくち、口に運んだ。


 男の肩が、すっと、下がった。


 張りつめていたものが、たった一口で、ほどけたのが分かった。固く縮こまっていた胃が、おそるおそる、それを受け入れている。男は、二口目を、もう少し早く運んだ。三口目には、匙を持つ手から、迷いが消えていた。


「……入る」と、男は呟いた。「すっと、入っていく。重くねえ」


 わたしは、何も言わずに、見ていた。料理を出したあとは、見ているだけがいい。言葉は、味の邪魔になる。


 男は、椀を両手で包むように持って、ゆっくりと、けれど止まらずに、食べ進めた。半分ほどで、一度匙を置き、長い息を吐いた。泣くのを、こらえるような息だった。


「久しぶりに……食った、って気がする」


 椀の底まで、男は食べた。最後のひとさじまで、ていねいにすくって。


 空の椀を見つめてから、男は名乗った。ガロ、という行商人だった。隊商からはぐれ、荷を半分なくして、ひとりで街道を歩いてきたのだという。


───


 ガロが、木陰で休んでいるあいだ、ロタ婆は、わたしの隣に立って、空になった鍋を見ていた。


「あんた……たいした料理人だね」と、婆さんは言った。「弱った腹に、ちゃんと合わせた。あれは、腕のいい者にしか、できない」


 長く人を見てきた、そういう目をしていた。


「この村にゃ、もう何年も、料理人がいないんだよ」とロタ婆は続けた。「村のはずれに、空いた食堂がある。前の料理人が、何年も前に、いなくなってね。どんな事情だったかは……まあ、いい。道具も竈も、そのままだ。あんた、流しだろう。よければ、あそこを使いな。温かいものを出す店が、一つもなくて、村の者も困ってるんだ」


 わたしは、しばらく、言葉が出なかった。


 流しの料理人のわたしに、初めて、置く場所ができようとしていた。買ったのでも、もらったのでもない。村に、置いてもらう。包丁ひとつと鍋だけで歩いてきたわたしに、竈と、井戸と、屋根が、差し出されていた。


「……お願いします」と、わたしは頭を下げた。


───


 日が傾くころ、ガロは、すっかり顔の色を取り戻して、立ち上がった。


「助かった。これで、足りるか?」


 差し出された銅貨は、一杯の粥にしては、きちんとした額だった。


「こんなに、いいんですか」とわたしが言うと、ガロは、首を振った。


「行商人ってのは、いいものには、ちゃんと銭を払う。それが、おれたちの礼儀だ。あんたの飯は、おれの命を拾った。それを、安く見積もっちゃ、こっちの名がすたる」


 懐は、決して温かくないはずだった。荷を半分なくして、行き倒れていた男だ。それでも、差し出す手に、迷いはなかった。わたしは、ありがたく、受け取った。これは、店の代金ではない。婆さんの竈を借りて作った、一杯の粥への、正当な対価だ。わたしの店は、まだ、開いてもいない。けれど、明日からは、あそこに、わたしの竈がある。


「あんた、あの空き食堂をやるのか」とガロが言った。「なら、おれが、外で言っておく。あの村に、弱った腹にもすっと入る飯を出す料理人がいるってな。行商は、口が広い。すぐ広まるぞ」


 ありがとうございます、とわたしは頭を下げた。


「この村は、おれの行商路の途中だ」と、ガロは言った。「また、通る。次は、行き倒れてじゃなく、客として、あんたの店で食わせてもらうよ」


 ガロは、荷を背負い直すと、夕日の射す街道へ、歩き出した。途中で一度、こちらを振り返り、片手を上げる。約束は、果たすつもりらしかった。あの男の口が、街道沿いに、わたしのことを、少しずつ運んでいくのだろう。そして、いつか、あの背中が、また、この村へ戻ってくる。そんな気が、なぜだか、した。


 ガロを見送ってから、ロタ婆が、わたしを、村のはずれの食堂へ連れていってくれた。長く無人だった店は、埃をかぶり、竈は冷えていた。けれど、鍋を吊るす鉤も、水を張る甕も、裏の小さな畑も、ぜんぶ揃っていた。料理人が立つのに、それで足りた。


 帰りがけに、ロタ婆が、ふと、思い出したように言った。


「そういえば……この村に、飯を食わない子がいてね」


 二つ隣の家の子だという。もう何日も、ろくに食べず、痩せていく一方で、母親が、毎日、困っている、と。世話役のロタ婆は、村の家々の事情を、ひと通り、知っているらしかった。


「あんたの料理なら、あの子も、食べるかもしれないねえ」


 婆さんは、それだけ言って、帰っていった。


 わたしは、その言葉を、胸にしまった。飯を食わない子。母親が、困っている。——明日、店を開けたら、その扉を、叩きに来るだろうか。そのとき、わたしは、その子の今に、何を合わせればいいだろう。考えるだけで、指先が、少し、うずいた。


 その夜、わたしは、冷えていた竈に、火を入れた。掃除をして、道具を磨き、水を汲み直す。手を動かしているうちに、気がつくと、夜が更けていた。明日、誰かが来るかもしれない。そのとき、冷えた竈では、何も出せないから。


 包丁ひとつと、小さな鍋。それしか持っていなかったわたしに、竈と、井戸と、屋根が、できた。まだ、名前もない店だ。けれど、料理人は、その一人から始まる。


 ——そう、のんびり構えていた、翌朝のことだった。


 まだ暖簾も出していない店の戸が、勢いよく、引き開けられた。


 飛び込んできたのは、息を切らした女だった。前掛けをつけたまま、髪を振り乱している。わたしを見るなり、すがるように、声を上げた。


「あなたですか。ここに、弱った腹でも食べられる飯を出す料理人が来たって、聞いて……!」


 ロタ婆が言っていた、あの、飯を食わない子の、母親だった。昨日のことが——流しの料理人が、道端の行き倒れを、一杯の粥で助け、村はずれの食堂を継いだことが——ひと晩で、村じゅうに伝わっていたらしい。


(第二話へ続く)

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