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薔薇が導くもの


リリエが薔薇の手入れに満足したころには、宮殿内でハンナが大層慌てながら彼女を探し回っている時刻になっていた。


肌寒かった庭も、太陽が昇るにつれて少しずつ暑さを帯び始める。


リリエは無我夢中で手入れに没頭した。それは義務感というよりも、半ば趣味のようなものだった。セレスティアにいたころから、亡き母が残した薔薇の世話だけは欠かさず続けていたからだ。


花が美しく咲けば、それだけで心が晴れやかになる。

それに、ダマスクローズは大変希少な品種だったし、幾重にも重なる花弁と濃厚な芳香を持つその薔薇を、手入れ不足で枯らしてしまうなどあまりにも勿体ない。


やがて太陽が燦々と降り注ぐころ、土弄りに夢中になっていたリリエの上へ不意に影が落ちた。


思わず振り返れば、冷ややかな瞳でこちらを見下ろす皇太子殿下と、その三歩後ろで困ったように眉を下げて笑う側近のクロードが立っていた。


(……あ。)




◇◇




朝餐の場では、いつも通り食事が行われている。


レオンハルトは昨日からどこか機嫌が悪く、黙々と朝食を口へ運んでいる。苛立っていても、その所作は洗練されたものだった。

その傍らに当たり前のように腰掛けるヴィオラは、そんな不機嫌なレオンハルトの様子を窺うようにしばらく沈黙していたが、やがてふと思い出したように口を開く。


「ねぇ、今朝のあれ、ご覧になりました?」


くすりと笑いながらレオンハルトへ視線を向ける。


「奥方様、まるで庭師のように薔薇のお手入れをなさっていたの。あんなに日差しが強いのに、大丈夫かしら」


心配するように眉を下げながらも、その胸中では嘲笑が渦巻いていた。どうせ殿下の指示なのだろう。それにしても、わざわざあんな時間に庭の手入れなどさせなくてもいいものを。それほどまでに彼女は歓迎されていないのだろう。


それは、次期正妻となるヴィオラにとっては好都合でしかなかった。


リリエは相変わらずこの場で朝食を取ることはない。それがヴィオラにとってどれほど滑稽なことか。わざわざ嫁いできたというのに自由に外へ出ることも許されず、こうして食卓を囲むことすらできない。なんとも愉快な話だった。


それだけではない。


今朝、ヴィオラが目を覚まし湯浴みを終えた頃。ふと自室の窓から庭園を見下ろせば、婚姻の儀以来姿を見ていなかった現正妻がせっせと庭仕事をしていたのだ。


それも、人目につきにくい奥まった区画で。


手前では庭師たちが貯水槽から水を汲み上げ、水やりをしていた。奥の区画はまだ手が回っていなかったのか、それとも本日の担当ではなかったのか。


なにせ広大な庭園である。数十人の庭師がいても、一人ひとりに割り当てられる区画は限られていた。そのため、しゃがみ込んで作業するリリエに誰も気付かなかったのだろう。


あるいは――


気付いていても、腫れ物のように扱っていたか。


どちらにせよ、ヴィオラにとってこれほど面白い話題はなかった。


「レオン様もお厳しいのね」


そう呟くと、さっそく朝餐の話題にしようと上機嫌で侍女たちに支度を命じたのである。



ヴィオラは、どうせいつものように「知らん」「放っておけ」で終わるものと思っていた。だが、驚いたような表情でこちらを見つめるユリウスが視界に入ったのと同時に、レオンハルトは朝食を運んでいた手をぴたりと止めた。


やがて額へ手を当てると、大きくため息をつく。


「あの、殿下……?」

「これを片付けておけ」


ヴィオラがおそるおそる声を掛けたが、レオンハルトは取り合わない。まだ半分以上残っている朝食を前に立ち上がると、クロードへ何かを耳打ちし、そのまま足早に去っていった。


取り残されたヴィオラはぽかんと口を開ける。どういうことだと言いたげな顔をしていると、やがてユリウスが面白そうに笑った。


「な、何よ……」

「いえ。それより、早く召し上がらないと冷めてしまいますよ」


どこか事情を察しているらしいユリウスとは対照的に、ヴィオラはぎり、と唇を噛み締めた。




◇◇




「……で、お前は庭で何をしていた。庭師の真似事でもしているつもりか?」


庭園の一角に設けられた茶会用のスペース。


豪華な椅子へ深く腰掛け脚を組むレオンハルトの向かいで、リリエは背筋を伸ばして座っていた。


茶会用の椅子やテーブルは妙に可愛らしい。薄桃色(ぴんく)の座り心地の良い椅子に、二、三人で囲む程度の小さな円卓(テーブル)。雨除けのための白い東屋(ガゼボ)まで設えられている。

恐らく、この場所は次期正妻であるヴィオラのために作られたものなのだろう。

貴族育ちの女性は皆このような意匠を好むのだろうか。セレスティアにいた頃、セシリアの部屋も桃色(ぴんく)で統一されていたことを思い出す。

やけに愛らしい空間は、レオンハルトには驚くほど似合っていなかった。


だからこそ、昨日と同じように膝を指で叩きながら苛立ちを隠さない彼の姿は、なおさら異様に映る。


庭仕事に夢中になっていたリリエを見下ろしたレオンハルトは、土で汚れたドレスと、ようやく治りかけていた手に増えた傷を見て舌打ちを零した。


さらに朝から何も口にしていないと側近(クロード)から聞かされれば、不機嫌そうに眉を顰める。


何か言いたげにしたものの、それを飲み込んだらしい。


クロードへ目配せすると、クロードはにこりと笑ってリリエの前へ歩み出た。


「日射病になられては困りますので」


そうしてリリエが何か言う間もなく、あれよあれよという間に連れて来られたのがこの場所だった。



しばらく昨日と同じ沈黙が続く。やがて先に口を開いたレオンハルトの問いかけに僅かに目線を下げる。


「……申し訳ございません。出過ぎた真似を――」「昨日からなぜ謝る?お前は自分が悪いことをしたという自覚でもあるのか?」


自覚はある。


刺繍に、豪華な食事。それから庭の手入れ。


庭師の真似事でもしているつもりか――は、恐らく嫌味だろう。勝手に、下女のような真似をするなと言われているに違いない。

相変わらず苛立ったように膝を叩くレオンハルトに、リリエは僅かに眉を下げた。彼は私といる時、いつも怒ったような顔をしている。


それも当然だ。疎ましくて仕方がないのだろうから。


「……申し訳ございません」


結局出てきた言葉はそれだった。


いや、リリエなりに色々考えたのだが、それ以外の言葉が見つからなかった。

最も、リリエをこうしたのは実父であるベルナールのお陰だが、そうさせてしまう原因を作ったのは他でもない自分自身なので、結局は自業自得といったところだろう。


気まずくなって視線を落とせば、膝の上の手に視線がいく。そうして、新しい切り傷が幾つか増えていることに気付く。ハンナがせっかく保湿膏を施してくれていたのに、更に傷を重ねてしまった。


(ハンナに謝らないと……)


そう考えているうちに、レオンハルトは大きくため息をつき立ち上がる。そのまま何も言わず、その場を去っていった。


(…ああ、まただわ)


リリエは自責の念に駆られ、小さく俯いた。


この宮殿へ来てまだひと月も経っていない。それなのに、既に何度この国の次期皇帝を失望させたことだろう。


(どちらにせよ、追い出されるのが遅いか早いかの違いね)


小さく息を吐いた瞬間。視界の端から不意に手が伸びてきて肩を震わせる。驚いて顔を上げれば、レオンハルトの側近であるクロードが、こちら以上に驚いた顔をしている。

しかしすぐにいつもの笑顔へ戻った。


「お薬をお持ちしました」


にこにこと笑うクロードに、リリエはどこか拍子抜けしたようにぽかんと、小さく口を開く。


「…殿下は素直ではありませんけど、これでもリリエ様をご心配なさっているのですよ? 自分から誰かに干渉するなど、前例がありませんし」


言いながら、懐から塗り薬を取り出す。


「失礼します」


そう一言添え、傷だらけの手を取り、もう片方の手に持っていた薬を丁寧に塗り込んだ。


「あ、あの……申し訳ございません……」

「謝らないでください。メルディアにもそう言われませんでしたか?」

「……」

「…傷は治りかけていますが、癖の方はなかなか治ってくれませんね」


何かを察しているような優しい微笑みに、リリエは何とも言えない気持ちになる。レオンハルトの側近であるクロードが、わざわざリリエのために薬を塗りに戻ってくる。

それはレオンハルトの指示がなければ有り得ないことだった。


クロードは嫌な顔ひとつせず手当てを終えると、薬を懐へしまう。


「この薬はメルディアに渡しておきます。湯浴みの後と朝の支度の際に塗布してください」


そして少しだけ笑った。


「……殿下のご命令ですから」


それだけ言うと、クロードは深々と一礼して去っていく。


それから少し経って、入れ替わるようにして、ハンナがリリエの元へ駆け寄ってきたのだった。

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