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庭園の薔薇



その日はあまりよく眠れなかった。


皇太子殿下がなぜお怒りになったのかもそうだが、明日は庭園に出なければならないという妙な義務感がリリエの胸を占めていた。


部屋へ戻ってきたハンナはどこか怒った様子でリリエを宥めた。

『奥様、気にしなくて大丈夫ですわ!あのお方がおかしいんですもの!側近もです!』


皇太子殿下にそんなことを言えるのはハンナくらいではないだろうか、と思いながらも、リリエは特に傷付いてはいなかったので「大丈夫よ」と逆にハンナを宥める羽目になった。


レオンハルトが去った部屋には、テーブルの上に置かれた薔薇の刺繍のハンカチと、彼が座っていたことで少し沈んだソファだけが残されていた。開け放たれた扉の向こうには静かな廊下が続いている。

この部屋は皇族方の居室から離れた場所にあるため、幸い他の侍女たちに見られることもなかった。


隣でぐちぐちとレオンハルトへの文句を零すハンナをどうにか宥めようと、リリエは刺繍のハンカチへ手を伸ばし、それをハンナへ差し出した。

すると先程までむくれていた表情がみるみるうちに明るくなる。

『よろしいのですか!?』ハンナは半ば信じられないというように、リリエとハンカチを交互に見やる。

やはり迷惑だっただろうか、と思ったのも束の間。

ハンナはそのハンカチを大切そうに見つめると、そっと侍女服のポケットへ仕舞い込んだ。『額縁に飾らせていただきます!』と誇らしげに宣言するハンナを止める方が、その後は大変だった。あまりにもそれには価値がないと繰り返し言い過ぎたせいで、今度はハンナに本気で怒られてしまったのである。


結局、贈ったものなのだから好きにしてもらおうと、リリエは途中で諦めることにした。






そうして屋敷中の者たちが目覚める一時間ほど前。

リリエは質素なドレスへ着替えると、侍女たちもまだ寝静まっていることを確認し、そろりと部屋を抜け出した。

庭園に出てもよいと言われた以上、出ないわけにはいかない。だが、初日に「姿を見せるな」と言われたことも覚えている。

その二つを両立させようと考えた結果、どうしてもこの時間になってしまった。




夏が訪れようとしているとはいえ、朝方はまだ肌寒い。


庭園は随分と広く、薔薇園らしき区画へ辿り着くまでには少し歩いた。宮殿から見下ろした時はすぐ近くにあるように見えた薔薇も、こうして実際に歩いてみると案外遠い。道の脇には季節の花々が咲き、朝露を纏った花弁が淡く光を弾いている。リリエはそれらを眺めながら少し早足で歩みを進めた。

やがて大きな噴水が姿を現し、その先には色とりどりの薔薇が咲き誇る区画が広がっていた。


風が吹いて、身震いをひとつ。薄着で来てしまったことを少し後悔しながら、リリエは庭園にある薔薇園へと足を進める。


赤、白、黄、桃色(ぴんく)(おれんじ)


それぞれの区画ごとに色分けされた庭園は大層立派で、実家(セレスティア)にいた頃の数十倍はあるだろうか。どの薔薇も見劣りすることなく花弁を広げており、丁寧に手入れが施されていることが見て取れた。


そうしてゆっくりと薔薇を眺めながら歩いていると、いつの間にか小さな花廊の前へ差しかかる。


(あら?)


そこに咲いている薔薇は、どうやら他の区画のものよりひと回りほど小ぶりだった。だが香りは群を抜いている。

小さな区画でありながら、濃厚で甘い芳香が辺りへ漂い、思わず足を止めてしまうほどだった。

淡い桃色(ぴんく)の花弁を幾重にも重ねたその薔薇を見て、リリエは僅かに目を見開く。


(ダマスクローズ……)


その薔薇は、リリエですら本でしか見たことのない品種だった。遠方より伝わったとされる古い薔薇で、その香りの高さから香油の原料として珍重される花である。


顔を近付ければ、甘く優雅な香りがふわりと鼻先を掠めた。目を細め、じい、とそれを見つめていると、少し離れた区画に植えられているせいか、幾つか葉が萎れていたり、花弁が枯れていることに気が付く。


セレスティア家で庭の手入れをしていたせいか、思わずいてもたってもいられなくなり、その場へしゃがみ込む。


(……少しだけ)


そう自分に言い聞かせながら手入れを始める。

傷んだ花弁を摘み、萎れた葉の様子を確かめ、枝ぶりを眺める。



ほんの少しだけのつもりだった。

けれど気付けば、外はすっかり明るくなり始めていた。

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