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薔薇の刺しゅう

春の景色が終わりを告げると同時に、梅雨入り前の湿り気を帯びた風がレオンハルト・ヴァルディアの鼻先を撫でた。

例年よりも少し早い梅雨入りは、湿気とともに重苦しい空気を城全体へ広げている。


ヴァルディア宮殿の書斎。

壁一面の本棚には数え切れないほどの書物が並び、中央には重厚な執務机が置かれていた。

レオンハルトは机上に積まれた書類を一枚ずつ捲りながら、淀みなくペンを走らせている。



「…刺繍?」


レオンハルトのこめかみがぴくりと動く。

だが次の瞬間には興味を失ったように再び視線を落とした。


「ええ。どうやら随分と熱心に取り組まれておいでのようですよ」

「どうせ男に媚びるためだろう。浅はかな」


吐き捨てるような言葉にも、側近は肩を竦めるだけだった。


「いいえ。刺繍を提案したのはハンナ・メルディアの方です」


ぴたり、とペン先が止まる。

レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。

その視線は、何がいいたい と言いたげに話し相手へ向けられる。


「むしろ奥様は、何か雑務はないかと尋ねておられたそうですよ」

「暇を持て余しているだけだろう」

「殿下がお部屋に閉じ込めるからでしょう。せめて庭園くらいは許可して差し上げたらいかがです?」


ぎろり、と冷ややかな視線が側近を射抜く。

だが当の本人は気にした様子もなく、にこにこと微笑んでいた。



クロード・ルシュカス。

レオンハルトの側近兼幼なじみで、見目麗しい容姿と人当たりの良さを兼ね備えた青年である。

レオンハルトとは正反対の性格をしており、誰に対しても分け隔てなく接するその姿から、社交界では『白の皇子』と呼ばれていた。


対するレオンハルトは『黒の皇子』


二人の名は社交界でしばしば対で語られる。


クロードは幼い頃からレオンハルトに仕えてきた。

彼の過去も、性格も、抱えているものも全て知っている。

だからだろう。

この城で唯一、クロード・ルシュカスだけがレオンハルトに遠慮というものを知らない。

ある意味では忠臣。

ある意味では馴れ馴れしいと言ったところか。



政略結婚にあたり、レオンハルトもリリエ・セレスティアの噂は耳にしていた。


その内容はどれもまあ酷いものばかりで、政略とはいえ、父上もよく受け入れたものだ、と当時レオンハルトは思った。



契約期間は一年。


長いようで短いその期間は、許嫁であるヴィオラ・エヴァレットが子を成した時点で終了する。

元より女嫌いなレオンハルトは、誰かと子を作る気などさらさらない。また面倒事が一つ増えたという認識でしかなかった。

だが、現皇帝であるアルドリックの命に逆らえるはずもなく、結局のところ、大人しく受け入れる他なかったのである。




リリエ・セレスティアとはこの一年、一切関わるつもりはなかったし、むしろ嫌悪感すら抱いていた。

だが、この宮殿で以前と同じような不祥事を起こされては体裁が悪い。

そこでレオンハルトは、侍女の中でも特に優秀なハンナ・メルディアと、側近であるクロード・ルシュカスに監視を命じた。

部屋から出るなとは言ったが、噂通りならすぐに飽きて癇癪を起こすか、ハンナへ辛く当たるか。


そうなるだろうと踏んでいた。

だが結果はどうだ。


刺繍?


笑わせる。


「眉間に皺が寄っていますよ、殿下」

「お前が余計なことを言うからだろう」


ちっ、と舌打ちを零す。

するとクロードは面白そうに笑った。

ユリウスといい、目の前の男といい、どうしてこうも呑気なのか。こんなにも張り詰めた城の中で、呑気に笑うものなどお前等くらいだ。


「では、もう一つご報告を」


クロードは僅かに首を傾げる。

その顔を見た瞬間、レオンハルトは嫌な予感がした。

幼い頃からの付き合いだ。

こういう時のクロードは、大抵面倒な話を持ってくる。


「リリエ・セレスティア嬢ですが」

「……なんだ」

「公爵家の出であるにもかかわらず、手は随分と荒れているそうです。それから――」


レオンハルトの眉が僅かに動く。

だがクロードは構わず続けた。


「そのお身体には、いくつか痣も見受けられたとか」


沈黙が落ちる。


「僕が何を言いたいかお分かりですね?」


深いため息が漏れた。

レオンハルトは手にしていたペンを机へ放り出す。

そうしてしばらく黙り込んだ後、低く口を開いた。


「午後からの予定は」

「ございません、殿下」

「……正妻の部屋を訪ねる予定を入れろ」


クロードは口を緩める。してやったり、とでも言うように。


「かしこまりました。ただちに」


その返事に、レオンハルトは再び舌打ちを零した。



✦︎✧︎✦︎✧︎



「まぁ! 奥様、とてもお綺麗な刺繍です!」


リリエの自室。

ハンカチの隅に丁寧に刺繍された薔薇を前に、ハンナはいささか興奮気味に目を輝かせていた。




◇◇


少し前に遡ること三日ほど前。


「奥様、先日お話ししていたものが届きました」


ハンナが両手いっぱいに色とりどりの刺繍糸を抱え、部屋を訪れる。

当のリリエよりも幾分嬉しそうな様子で、テーブルの上に並べられた刺繍糸をまじまじと見つめていた。


「ありがとう、ハンナ」

「当然の務めですわ、奥様」


あの日から、ハンナには敬語も敬称も固く禁じられている。

『次期皇帝妃になられるお方なのですから、もっと威厳をもってくださいまし!』

人差し指を立てながら何度もそう言われ、さすがのリリエも観念したように敬称と敬語をやめたのだった。


「さて、こんなにあると図案(デザイン)も迷いますね……奥様、何かお好きな柄や模様はございますか?」

「図案……」

「刺繍の定番ですと、お花や家紋、植物などでしょうか。奥様のお好きなお花などがあれば、初めはそれになさるのがよろしいかと」



リリエに仕えて一週間も経つ頃には、ハンナも彼女の人となりを少し理解したのだろう。

初めの頃に比べれば、その物腰は随分柔らかくなっていた。

言葉を慎重に選ぶことも少なくなり、どこか拍子抜けしているような様子さえ見て取れる。


ハンナはよく笑い、よく話し、よく働く。

リリエが目を覚ます頃にはハーブティーを用意して部屋を訪れ、手際よく髪を梳かして身なりを整える。

顔を洗うためのボウルを運び、濡れた顔にすかさずタオルを差し出す。

リリエの荒れた手を労る香油や保湿膏(ハンドクリーム)を用意し、リリエがそれを塗っている間にヘアオイルを馴染ませ、髪を絡まないよう三つ編みにしてくれた。


朝食も以前より豪華になった。

温かなスープにオムレツ、焼き立てのパン、ヨーグルト、それから季節の果物。


刺繍糸が届くまでの間も、ハンナは自ら選んだ本を持ち寄ったり、庭園で摘んだ朝露の残る薔薇を美しい花瓶へ活けたりと、実に気の利く侍女ぶりを発揮していた。

最初こそ戸惑っていたリリエだったが、痣や手荒れを見ても嫌な顔ひとつせず、何も聞かずにいてくれるハンナのおかげで、少しずつ心を許せているのを実感していた。


とはいえ、セレスティア公爵家で過ごした年月の方が遥かに長い。

時折どうしようもない罪悪感に押し潰されそうになり、夜な夜な悪夢を見ることも少なくはなかった。

それほどまでに、実父や義母、義妹から受けた仕打ちは、リリエの心の奥深くに染み付いていたのである。





「……薔薇、でもいいかな」

「ええ、ええ! とても素敵だと思います」


ぱっと表情を明るくしたハンナは続ける。


「奥様にとって思い入れのあるお花なのですか?」

「母が、好きだったの」

「……そうでしたか」


ハンナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。


「ではそういたしましょう。糸はたくさんございますから、お好きなお色の薔薇を刺繍してみてくださいね」


その笑みに、リリエは小さく頷く。

無表情で人形のようだと評される自分から零れ落ちた僅かな感情を、ハンナはいつも嬉しそうに拾い上げてくれるのだった。




◇◇



そして現在。

ハンカチの隅に咲く薔薇は繊細で美しく、まるで本物の花のようだった。


「奥様の刺繍は本当にお綺麗ですわ……まるで売り物のよう……」


ハンナは感嘆したように目を細める。


「そうかな。久しぶりに刺繍をしたから、拙いところがたくさんある気がするけれど」


「とてもそうは見えませんが……」


拙いなどご冗談を。

そう言いたげな顔で見つめられ、リリエは少しだけ視線を落とした。

懐かしい。

針を持ち、静かに刺繍をしていたあの頃を思い出す。



その時だった。

コンコン、と扉を叩く音が響く。

ハンナが返事をしようとした直後、扉が開かれた。



「……レオンハルト殿下」


思わず漏れた声に、リリエも振り返る。

そこには氷のような表情を浮かべたレオンハルト・デイ・ルシアン・ヴァルディアと、その隣でどこか困ったように微笑む見知らぬ青年の姿があった。

書きながら訂正してを繰り返しているせいで名前がコロコロ変わってしまう

ひとまずこれでいきます

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