黄色のシュクレ
開いた口が塞がらない。
目の前には、市井の装いに身を包んだ従者や侍女たちが、ざっと見ただけでも数十人は控えている。先日レオンハルトと出掛けた時とは、まるで比べものにならない人数だった。いや、もしかすると気づかなかっただけで、あの日もこれほど多くの護衛が街中に紛れていたのだろうか。
「リリエ様、見てみて!」
弾んだ声に顔を上げると、控えめなドレスを纏ったヴィオラが、その場でくるりと回ってみせた。動きに合わせてスカートの裾と髪のリボンがふわりと広がり、傍に控えていた侍女たちから、感嘆の声とともに小さな拍手が上がる。
「このお洋服、とても動きやすいわ。いつも着ているドレスより締め付けられないし、軽くて快適なの」
すっかりお気に召したらしい。ヴィオラは、質素な外出着を持っていなかった。そこで、以前カーター婦人がリリエのために仕立てたドレスを貸したところ、驚いたことにウエストまでぴったりだったのである。
(背丈が近いとは思っていたけれど、まさか体型まで似ているとは)
「このドレス、私もカーター婦人に仕立ててもらおうかしら」
鼻歌交じりに鏡の前で何度も回るヴィオラは、華美な宝飾品を取り払った姿でさえ、女神のように美しい。
彼女付きの侍女たちも、なるべく目立たぬよう装飾を控え、髪型も普段より簡素に整えている。リボンだけはどうしても外せなかったらしい。今も柔らかな髪の上で揺れるそれは、もはやヴィオラの一部のようなものなのだろう。
一方、ハンナはといえば、すっかり満足げな面持ちでリリエを眺めていた。
先日の外出では、知らぬ間に奥様のお召し替えが終わっていたことを随分と嘆いていたが、今回はその雪辱を果たせたらしい。髪から靴の先まで、自らの手で整えたリリエの姿を見ては、何度も嬉しそうに目を細めている。
数か月接してみて分かったことだが、ハンナは大層な世話好きだ。リリエをまるで幼子のように慈しむ姿には、シャーロットやリネット、アイリスでさえ、時折さまざまな意味で心配になる。
「奥様、どうかお気をつけて」
「ありがとう、ハンナ。お土産を買ってくるわね」
見送りのはずが、名残惜しそうに「やっぱり私も」と言いかけたハンナを、三人の侍女たちが慣れた様子で引き留める。
その光景を横目に、リリエは待ちきれない様子のヴィオラのもとへ歩み寄った。
「行きましょ、リリエ様」
「はい」
差し出された手を取ると、ヴィオラは花が綻ぶように微笑んだ。
今回訪れた城下町は、先日レオンハルトと足を運んだ場所とは、また違った趣があった。
宮殿から東へ少し進んだその街には、家々よりも商店が多く軒を連ね、硝子張りの大きな窓には流行の衣装や帽子、繊細な装飾品などが美しく飾られている。街路樹がほどよく夏の日差しを遮り、石畳の両側には小ぢんまりとした露店も出ていた。
先日の催しほどの人出はないものの、通りには買い物客の姿が絶えず、店先からは時折楽しげな笑い声が聞こえてくる。
あちらが絵本の中へ迷い込んだような素朴な街ならば、こちらは随分と洗練された商業街といったところだろうか。通りを少し眺めただけでも、女性が喜びそうな店ばかりである。
「素敵! 何から見ようかしら」
ヴィオラは目をきらきらと輝かせ、うっとりと頬へ手を添えた。
次期正妻という立場にある彼女は、比較的自由に外出を許されているものの、これまでこうして街へ買い物に出掛ける機会は少なかったらしい。一人で店を巡ったところでつまらないし、欲しいものなら出掛けずとも大抵は手に入る。そもそも、気軽に誘える友人がいなかったのだという。
「ヴィオラ様、くれぐれも目立たぬように」
「分かっているわ。ねえ、リリー、行きましょ!」
付き従う従者の忠告を理解しているのかいないのか、ヴィオラはリリエの手を取るなり、弾むような足取りで歩き出した。どうやら愛称で呼ぶことくらいは意識しているらしいが、今にも駆け出しそうなその姿を見る限り、従者の心配は尽きそうにない。
目立たぬように、とは言うけれど。
どうやら、それは随分と難しい注文だったらしい。
ヴィオラは気になる店を見つけるたびに足を止め、あれも素敵、こちらも綺麗と目を輝かせては、次から次へと店を巡った。フリージアの刺繍を施した髪飾りに、お揃いのブレスレット、それから侍女たちへの土産まで、気づけば随分な量の買い物をしていた。
何を見ても嬉しそうに笑い、気に入ったものがあればリリエの手を引いて一緒に眺める。その無邪気な様子を見ているうちに、リリエもまた、自然と頬が緩んでいた。
「とっても楽しい!一日では時間が足りないわね」
立ち寄った茶店で、ヴィオラは運ばれてきた菓子をひと口頬張るなり、またしても「美味しい!」と目を輝かせた。
今日は朝からずっと、こんな顔をしている。
頬を紅潮させ、次はどこへ行こうかと思案する姿は、どこから見ても年頃の少女そのものだ。もし次期正妻という立場になければ、こうして友人と気ままに街を歩き、好きなものを買って過ごすことも、もっと当たり前の日常だったのだろうか。
「たくさんお買い物をしましたね」
「ええ! そのブレスレット、ずっと着けていてね」
ヴィオラは嬉しそうに、リリエの手首へ視線を落とした。先ほど二人で選んだお揃いのブレスレットが、ささやかな輝きを添えている。
ほんの数日前まで、あれほど警戒していたとは思えないほど、今のヴィオラはすっかり心を開いてくれていた。
きっと、元より心根の美しい人なのだろう。
突然現れた悪名高い女を警戒するのは、至極当然のこと。けれど、こうして一度親しくなれば、何の隔たりもなく接してくれるのだから。
(それにしても……)
リリエは手首のブレスレットを眺めながら、ふと考えた。
政略結婚とはいえ、今は自分が皇太子妃の座にある。次期正妻となるヴィオラが、こうも親しくしていてよいものなのだろうか。
(ハンナもクロード様も、殿下からのお咎めもないわ)
本来ならば、いずれ宮殿を去る身として、リリエの方から一歩引かねばならないはずだった。
それなのに、誰も二人の交流を咎めようとはしない。それどころか、侍女たちはヴィオラの訪問をすっかり歓迎するようになり、レオンハルトからも何ひとつ言われていなかった。
これも、ラヴィリエ皇家の寛大な配慮なのだろうか。
なんて考えてみたところで、答えが出るわけでもない。
それ以上思い悩むのをやめ、目の前の紅茶へ口をつけた。マスカットを思わせる甘く爽やかな香りが鼻へ抜け、ダージリン特有の澄んだ風味が舌の上へ広がる。
ふと顔を上げれば、向かいに座るヴィオラもまた、慣れた仕草で紅茶を口へ運んでいた。
背筋はすっと伸び、ソーサーへ添えた指先に至るまで美しい。先ほどまで無邪気にはしゃいでいた姿とは打って変わって、その所作のひとつひとつから、幼い頃より厳しい礼儀作法を身につけてきたことが窺える。
「ねえ、リリー?」
ちょうど茶を口に含んだところで呼びかけられ、リリエは慌てて飲み込もうとした。
「リリーは、レオンハルト様をどう思っていらっしゃるの?」
ごくり、と喉が大きな音を立てた。
思いも寄らぬ問いかけに危うくむせそうになり、リリエは動揺を隠しきれないまま、慌てて口元へハンカチを当てる。
「……そ、れは……その…?」
「そのままの意味よ」
「ここで、それを……」
「ここじゃないとできないじゃない。宮殿の中では侍女たちに聞かれているもの」
あまりにも当然のように言われ、リリエは返す言葉を失った。
確かに、その通りではある。
けれど、だからといって何故それを自分に尋ねるのだろう。何か別の意図があるのかとも考えたが、こちらを見つめるヴィオラの瞳には曇りひとつなく、どうやら年頃の少女らしく、ただ恋の話に花を咲かせたいだけのようだった。
「殿下はリリーが好きだと思うの、私」
「いえ、そのようなことは決して……」
「いいのよ。私、別に彼のことは好きでも何でもないもの」
一瞬、自分の耳を疑った。
今、確かに好きではないと言ったのだろうか。
ヴィオラは幼い頃からレオンハルトの許嫁として定められていた。この国では珍しくもないことであり、優れた血筋を後世へ繋ぐため、皇帝の意向によって婚姻が取り決められることもある。ヴィオラもまた、そのしきたりのもとに育てられてきた一人だった。
それに、初めて顔を合わせた頃の彼女は、リリエを随分と敵対視していたようにも思える。
それなのに、目の前のヴィオラは少しも気負う様子を見せず、澄んだ瞳でこちらを見つめていた。
「実は…私ね、他にお慕いしている人がいるの。……あ、リリーにしか伝えていないから、他の人には内緒よ?」
「お慕い……」
「そんな顔しないで。私たちだってリリーと同じ、政略結婚のようなものなのよ。望まない者同士、子を成すためだけに縁談を組まれているんだもの」
ヴィオラの言うことも、あながち間違いではない。
許嫁とは、そういうものなのだろう。
もちろん、相手を心から愛することができれば、それに越したことはない。けれど、誰もが望んだ相手と結ばれるわけではなく、表向きは夫婦として振る舞いながら、別の相手に想いを寄せている者もいるという。
「貴方がここへ来た頃は、悪い噂が宮殿中に広まっていたの。だから、きっと地位かお金が目当てなのだと思っていたけれど……リリーがこんなに素敵な女性だなんて。噂話は信じるものじゃないわね」
ヴィオラは自分の考えを戒めるように小さく首を振ると、ふわりと微笑んだ。
「ねえ、リリー! 私たち、これからもずっとお友達よ? きっと、きっとよ!」
「はい、もちろんです……!」
思いがけない言葉に、リリエも自然と笑みを浮かべた。
ヴィオラはその返事に満足したらしく、嬉しそうに目を細めると、再び紅茶を口へ運んだ。それきり、彼女が想いを寄せる相手について話すことはなかった。




