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愛らしい子猫

「奥様、久方ぶりに刺繍をなさいませんか?」


 色とりどりの刺繍糸をテーブルの上へ広げながら、ハンナがそう問いかける。


 昼食を終えたばかりの室内では、侍女たちが空いた皿を手際よく下げ、午後の茶を整えていた。


「素敵な刺繍糸ですわね」


 ワゴンを押してきたシャーロットが、茶請けとティーセットを卓上へ並べながら、うっとりと目を細める。


 運ばれてきたカップの中には、まだ固く閉じた小さな蕾がひとつ。ティーポットには、ごく淡く色づいた茶が満たされていた。


「本日のお茶は、茉莉花をご用意いたしました。別名ジャスミンとも呼ばれるそうで、香り高いと巷でも評判なのです」



 それは、数日前に訪れた城下町の花屋で、レオンハルトが買い求めていたもののひとつ。


 あの日、彼はいくつもの花や苗を購入していたが、そのうちの一袋には、こうした珍しい異国の茶花や食用花が入っていた。


 ひとつの袋の中身がこれならと、もうひとつの袋についても、それとなく尋ねてみたが


『その時期がきたら教えてやる』


 あっさりとそう言われたので、それ以上深く聞くことはしなかった。



 カップへ茶を注げば、湯の中で閉じていた茉莉花がゆっくりとほどけていく。白い花弁が水面の下でふわりと開くと同時に、甘く澄んだ香りが辺りへ漂った。


「こうして花が開くところまで楽しむものなんですよ、綺麗ですわね」


 シャーロットが嬉しそうに教えてくれる。


「ええ、本当に」


 彼女は花や草木の類に詳しい。


 幼い頃から『花綴り』を好んで読んでいたリリエよりも、遥かに多くの国や地方の花を知っているほどだった。レオンハルトから渡された紙袋の中身を見た時も、これはどこの花、こちらは何に使われる花と、ほとんど迷うことなく言い当てていた。


彼女は自然の多い土地の出身らしく、幼い頃から草花や木々に囲まれて育った。その手のことなら任せてほしいと、以前得意げに胸を張っていた姿が頭を過ぎる。


「模様はどうされますか?」

「そうね。以前は薔薇だったから、今度は鈴蘭のような小ぶりの花をいくつか刺してみたいわ」


 茉莉花の茶を一口含み、リリエは並べられた刺繍糸へ視線を落とした。大輪の花をひとつ大きく刺すのも美しいが、小さな花々を布の上へ散らすように配するのも悪くない。


「それでは、こちらの白色を――」


 ハンナが目の前にある一本の刺繍糸へ手を伸ばしかけると同時に、部屋の扉が、三度控えめに叩かれる。


ふたりは揃って扉へと目を向けた。


「どなたでしょう…?」


 今日はレオンハルトが遠征へ出ると聞いていた。つまり、クロードも同行しているはず。

 ならばユリウスか、あるいは皇帝だろうか。

 扉へ目を向けていると、シャーロットが小走りで向かい、そのまま開く。


 そして、ぴたりと動きを止めた。


「……ヴィオラ様……」







 ふわふわと、頭に結ばれた黄色いリボンが揺れている。

 今日のドレスにあしらわれたチュールと同じ生地で作られたそれは、薄く透けるような質感をしており、その中へ織り込まれた金糸が、光を受けるたびにちらちらと煌めいていた。


 向かいへ座るヴィオラは、どうにも落ち着かない様子で部屋の中を見回している。


 以前、子猫のようだと思ったことがあるが、こうして改めて見ても、やはりその印象は変わらなかった。


「……火傷は」

「はい?」

「大丈夫ですの? その…跡が残ったり」


 ようやく口を開いたかと思えば、その内容は以前庭園で起きた出来事についてだった。


「はい。痛みも跡も残らず、綺麗に治りました」

「そう…」


 ヴィオラは僅かに目元を和らげ、どこかほっとしたような表情を見せる。

 けれど、その後は再び黙り込んでしまった。



 彼女は、先ほどまで扉の外を行ったり来たりしていたらしい。

 洗濯物を運んでいたリネットが偶然その姿を見つけて声を掛け、そのまま代わりに扉を叩いたのだという。

 それから部屋へ通したものの、ヴィオラは長いこと何も言わず、その第一声が先ほどの火傷についてだった。


(もしかして、これだけのために部屋を訪ねてくださったのかしら)


 ならばもう用事は終わりか。そう思ったが、いつまで経っても立ち上がる気配はない。

 リリエが急かすことなく待っていると、やがてヴィオラが再び口を開いた。


「…この間の、贈り物のことですけれど」


 じっと見つめれば、ヴィオラは居心地悪そうに視線を逸らし、膝の上で指先をもじもじと絡ませる。


「殿下から、受け取りましたの。…フリージアの栞のことですけれど」

「……あ、」


 城下町の雑貨店で購入した、あの栞のことだと理解したのは、二秒ほど経ってからだった。


(ヴィオラ様は私とあまり関わりたくはないでしょうから、殿下にお願いしてお渡しいただいたのよね)


 淡い色合いのフリージアを象った、繊細な細工の栞。

 貴族は書物を読む機会も多い。栞ならば日常的に使えて、邪魔にもならないだろうと思って選んだもの。


(買ってくださったのは殿下ですけれど…)


「フリージアの花が好きだと、殿下に聞いたんですの?」

「え?」

「その花が好きだなんて、貴方には話していないでしょう?」

「……はい、いえ、殿下からは何も聞いておりません。私が勝手に、ヴィオラ様にお似合いになると思って」


 ヴィオラはしばらく、真意を確かめるようにリリエの顔を見つめていた。

 やがて張り詰めていた肩の力を僅かに抜き、卓上の茶へ手を伸ばす。一口飲み、続いて小さな茶菓子を口にしてから、ふわりと微笑んだ。


「ねえ、リリエ様。またこうして、お茶をご一緒してくださいますか?」

「……ええ、もちろんです!」


 ヴィオラの笑顔は、まるで花が咲いたようだった。あまりの美しさに思わず見惚れているうちに、ヴィオラは椅子から立ち上がり、スカートの裾を摘まんで優雅に礼をする。

 リリエも慌てて立ち上がり、同じように礼を返した。


 礼をしたヴィオラの黄色いリボンがふわりと揺れると、どことなく、一輪のフリージアのように見えた。







 それからというもの、ヴィオラは定期的にリリエの部屋を訪れるようになった。

 最初のうちは以前と同じように扉の前をそわそわと行き来し、リネットたちに声を掛けられてようやく中へ入ってきていたが、幾度か部屋へ尋ねるうちに、自分の手で扉を叩くようになっていた。


 ヴィオラは次期正妻という立場もあり、元よりレオンハルトの居室からそう遠くない場所に部屋を与えられている。

 つまり、リリエの部屋とも近い。


お茶会は週に一度だったのが二度になり、今では週に三度ほど部屋を訪れている。場所はリリエの部屋だったり、庭園だったり、まちまちだ。


「ねえ、リリエ様。この刺繍、とっても綺麗ね」

「ありがとうございます。よろしければ、貰ってください」

「まあ、本当? 嬉しい! これもフリージアだわ!」


 花弁の一部へ金糸を織り込んだ刺繍が、窓から射し込む陽光を受けてきらりと輝く。ヴィオラは嬉しそうにそれを掲げると、また花が咲くように笑った。


(こうして見ると、本当に美しい方)


 ヴィオラが初めて部屋を訪れたあの日、リリエは刺繍の模様を鈴蘭からフリージアへ変えた。

 あの栞をあれほど喜んでくれたのなら、また同じ花を贈れば、あの笑顔を見られるだろうかと思ったからだ。そう考えながらする刺繍は、まるで恋をしているようなトキメキがあった。殿方が女性(レディ)に贈り物をする意味が分かる気がする。


二人の様子に、最初のうちは侍女たちも揃って目を丸くしていた。

 次期正妻であるヴィオラと、現在皇太子妃の座にあるリリエ。

 本来なら、そう気軽に親しくなるような間柄には見えなかったのだろう。


 ましてリリエは政略によって迎えられた身であり、自分がいずれ宮殿を去ることも理解している。必要以上に周囲の者と深く関わろうとはしてこなかった。いずれ離れる相手に過度な情を抱かせることも、別れの後にラヴィリエ皇家が無慈悲だと責められることも避けたかったからだ。


 けれど、そんな事情など露ほども知らぬように、ヴィオラは思いのほか早くリリエへ懐いていった。


「それでね、明日は下町へ行きたいんだけれど」

「下町…ですか?」

「ええ! リリエ様とお買い物がしたいわ。私、歳の近いお友達と一緒にお買い物をするのが夢だったの」


(お友達…!)


 ヴィオラはやはり猫のようだった。

 初めの頃は恐る恐るこちらの様子を窺い、何を話すにもどこか遠慮がちだったのに、今では敬語さえところどころ抜け落ちるほど親しくなっている。

 一度懐けば、そっと寄り添い、甘えるように距離を縮めてくる様子はまるで、人慣れした子猫そのものだった。


 幼い頃から次期皇帝妃となるための教育を受けてきたヴィオラには、本当の意味で友人と呼べる相手がほとんどいない。

 茶会を開けば集まる令嬢もいれば、親しく言葉を交わす貴族もいる。けれど、それは家柄や立場を介した付き合いであり、ただ同年代だからという理由だけで笑い合い、気軽に街へ出掛けるような友人とは違う。

 僅か五歳の頃から次期皇帝妃として厳しい教育を受けてきたヴィオラもまた、一人の女性(レディ)である。

 歳の近い友人と城下町で茶を飲み、店を巡り、気に入ったものを眺めながら他愛のない話をする。

 そんなごく普通の時間に憧れるのは、きっと少しも不思議なことではない。


 そして、それはリリエとて同じだった。


「殿下には許可をいただいているの!よかったら、一緒にお買い物してくださる?」


 返事をするよりも早く、ヴィオラは胸の前で両手を組み、あれをしたい、これを見たいと楽しそうに思いを巡らせている。


 こうして見ていると、次期皇帝妃という肩書きなどどこにも見当たらず、ただ明日の予定を心待ちにしている一人の少女と何ら変わらない。



 出会う場所や立場が違っていたなら、これから先もずっと良い友人としてやっていけたのだろうか。



 ヴィオラが一通り話し終えるまで、リリエは時折相槌を打ちながら静かに耳を傾けていた。


一度訪れた下町。けれど、共に行く相手が違えば、きっと目に映るものも、立ち寄る店も変わるのだろう。


 自分のために欲しいものは相変わらず思いつかない。

 それなら、ハンナたちへの土産でも探してみようか。


「ねえ、楽しみね」

「はい。本当に楽しみです」

かわいいヴィオラちゃんを書けてよかった

もう暫くヴィオラちゃんに浸ります

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