紺碧の贈りもの
雑貨屋の棚に並ぶくるみ割り人形を、リリエはしばらくまじまじと見つめていた。
それから、その隣に置かれた、いかにも子ども向けらしい玩具へ視線を移す。
「気になるものでもあったか?」
「いえ、そういうわけでは」
首を横に振れば、レオンハルトはもはや慣れたように一度頷き、そのまま店の奥へ歩いていった。
リリエは再び、先ほどの玩具へ目を戻す。
幼い子ども向けだからか、並んでいるものの多くは木で作られていた。万が一口に含んでも害がなく、誤って呑み込まぬよう大きめに作るのだと、昔、母から教わったことがある。
ここに並ぶものは、どれも初めて見るものばかりだった。
珍しくて、興味深い。けれど、それを欲しいかと問われれば、やはり答えは違う。ただ、目に留まる。それだけなのだ。
「欲しいものがあれば何でも買ってやるから、遠慮なく言え」
「……はい、ですが――」
こちらを振り返ったレオンハルトへ、お気遣いなさらず、と続けようとした、その時だった。
ふと、棚の一角に置かれた小さな栞へ目を奪われる。
淡い金属で作られた細身の栞には、一輪のフリージアが繊細に象られていた。花弁の先にはごく小さな硝子飾りが嵌め込まれており、窓から差し込む光を受けて、控えめにきらりと輝いている。
リリエは思わず足を止め、その小さな花をじっと見つめた。
「欲しいのか?」
「……ええと、」
「いい。買ってやる」
言い終わるより早く、レオンハルトはその栞を手に取った。
「他に欲しいものは?」
どうやら、本当に何でも買ってくれるらしい。
とはいえ、やはり自分のために欲しいものは思いつかない。何もないと言えば、また怪訝そうな顔をされるような気がして、リリエは困ったように店内を見回した。
「では、これを……」
「菓子?」
「はい。メルディアたちが好みそうなので」
顔を上げると、レオンハルトが何とも言えない目でこちらを見つめていた。欲しいものを伝えたはずなのに、何故そんな顔をするのだろう。
「お前の欲しいものじゃないのか」
「欲しいものなどありませんので…」
「じゃあ、これは」
レオンハルトは先ほど手に取った栞を、リリエの目の前へ掲げた。
「ヴィオラ様に、よく似合いそうだなと」
その言葉を聞いた途端、レオンハルトは片手で額を押さえ、はぁ…と深くため息を吐いた。
この光景を、つい先ほども見たような気がする。
「……ああ、お前はそうだったな」
(そう?)
意味を上手く汲み取れず、リリエが不思議そうに首を傾げていると、レオンハルトは先ほど選んだ菓子を手に取った。
それからぐるりと店内を見渡し、何かを思いついたようにすたすたと棚の間を進んでいく。やがて別の品をひとつ手に取ると、そのまま迷いなく会計へ向かってしまった。
呆然と立ち尽くすリリエをよそに、支払いまであっという間に済ませてしまう彼を、なるべく目で追いかけた。
「次、行くぞ」
今度こそ荷物を持たねば。そう思い、リリエは彼の手元へ向かって手を差し伸べたけれど、そこへ降りてきたのは荷物ではなく、レオンハルトの掌だった。
(はっ)
荷物を――と思った時には、もうその手はしっかりと握られている。
そのままあれよあれよと店の外へ連れ出されてしまい、リリエは繋がれた手と、彼の持つ紙袋を交互に見つめた。
きっと、これも彼なりの気遣いなのだろう。
通りへ戻ると、店内に籠っていた空気を払うように、涼やかな風が頬を撫でた。
思いのほか冷たい風に誘われるように顔を上げ、その吹いてくる方角へ目を向けると、家々の隙間の向こうで、陽を弾いてきらきらと光る湖面が見えた。
涼しいとはいえ、夏も半ば。浅瀬では靴を脱いだ子どもたちが裸足のまま駆け回り、跳ね上がった水飛沫が陽の光を受けて白く輝いている。
その無邪気な笑い声を聞いていると、リリエの胸の奥が懐かしさでいっぱいになった。
子どもたちのはしゃぐ声を背に聞きながら、リリエは、まるで行き先が初めから決まっているかのように迷いなく進むレオンハルトのあとをついて歩いた。細い小道を抜け、その先に続く赤煉瓦の坂道を上っていく。
この辺りまで来ると、先ほどまでの賑わいが嘘のように人の姿が少なくなった。催しの露店も数歩手前ですっかり途切れ、代わりに小さな店や古びた家々がぽつぽつと並んでいる。
どこか、街の奥深くへ入り込んでいくようだった。
背の高い木々が道の上へ柔らかな影を落とし、赤煉瓦の壁には蔦が這っている。遠くから僅かに聞こえてくる音楽も、ここまで来れば風に紛れるほど微かなものだ。
賑やかな催しの中心とはまるで違う静けさに包まれ、リリエは再び、おとぎ話の中へ迷い込んだような心地になった。
今日は、本当に色々なものを見た。
セレスティアにいた頃なら、きっと目にすることさえなかった景色ばかりだ。色鮮やかな店先も、知らない菓子の味も、湖ではしゃぐ子どもたちの笑い声も、たった一日の中へ詰め込まれている。
気づけば、朝から胸の奥に沈んでいた重たいものは、随分と薄れていた。少しだけ浮き足立つような心地で歩いていると、不意にレオンハルトが足を止めた。
「リリエ」
「はい」
繋がれていた手を優しく引かれ、そのまま向かい合う。
レオンハルトは片手に持っていた、先ほど雑貨店で受け取った袋へ手を入れると、中を探るように指先を動かした。
何をしているのだろう。
リリエが黙って見つめていると、やがて彼は小さな何かを取り出した。
「じっとしてろ」
「……?」
言われた通り動かずにいると、その手が頭の方へ伸びてくる。
僅かに身を屈めたレオンハルトが近づいた拍子に、淡い石鹸のような清潔な香りがふわりと鼻先を掠めた。
思わず、心臓がどきりと音を立てる。
近い。
そう意識した途端、妙に落ち着かなくなって、どこかに紛れているはずの護衛たちに見られてはいないだろうか、などという考えまで脳裏を過った。
別に、見られていたところで何ということもないはずなのに。それでも何故だか気恥ずかしくて、リリエは視線の置き場所に困ったまま、大人しくされるがままになっていた。
「よく似合ってる」
やがて満足げな声が落ちてきたかと思えば、肩へ手を添えられ、そのままくるりと身体の向きを変えられる。
目の前にあった店の硝子窓へ、リリエの姿が映った。
簡素に纏めた髪には、見覚えのない小さな髪留めがひとつ添えられている。
繊細な細工で象られていたのは、一輪の青い薔薇だった。
(青薔薇……)
リリエはそっとそこへ手を添える。
その色を見た途端、先日の舞踏会で纏ったドレスが脳裏に蘇った。
あのドレスにも、青い薔薇があしらわれていた。
薔薇そのものは昔から好きだった。だからこそ、こうして贈られることも素直に嬉しい。けれど、どうしていつも『青い』薔薇なのだろう。
硝子越しにちらりとレオンハルトの姿を窺えば、当の本人はどこか満足そうな顔をしたまま、何事もなかったかのように踵を返してしまった。
どうやら、また歩き出すらしい。
リリエは髪留めへ触れていた手をそっと下ろすと、その背を追いかけた。
「いらっしゃい……おや、これはこれは」
扉を開けたレオンハルトの姿を見るなり、奥にいた老店主は随分と見知った相手を迎えるように目を細めた。
そのあとに続いてリリエも店内へ足を踏み入れると、ふわりと柔らかな香りが鼻先を撫でる。
どうやら、ここは花屋らしい。
つい先程、レオンハルトが扉を開ける直前に見えた木製の看板にも、小さな花の絵が描かれていたことを思い出す。
軽く辺りを見回してみれば、店内には色とりどりの花々が所狭しと並んでいる。大輪の花を咲かせているものもあれば、まだ固く蕾を閉じたものもあり、それぞれ種類や色合いごとに美しく整えられている。葉の艶もよく、萎れた花などひとつも見当たらないのを見る限り、随分と手入れの行き届いた店だ。
レオンハルトはすでに、老店主と何やら話し込んでいた。挨拶をすべきか、と思ったが、二人の間へ入る隙がなく、リリエは邪魔にならぬよう少し離れた場所で待つことにした。
それにしても、あれほど親しげに話しているところを見ると、ここも皇家と縁のある店なのだろうか。
「何か探しているのかい?」
不意に背後から声を掛けられ、リリエの肩がぴくりと跳ねた。
振り返れば、そこには穏やかな面差しの男が立っていた。年の頃は六十前後だろうか。奥にいる老店主よりは幾分若いものの、よく似た柔らかな目元をしている。
「その女性は、私の妻だ」
いつの間にかこちらへ視線を向けていたレオンハルトが、短くそう告げた。
男は一瞬目を見開いたものの、すぐに察したように表情を改める。
「……これは、皇太子殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
周囲へ聞こえぬよう、声は随分と控えられていた。
男はノルマンと名乗った。
どうやら奥にいる老店主の息子らしく、レオンハルトとも以前から面識があるようだった。細められた目元と物腰の柔らかさも相まって、どこか人好きのする雰囲気がある。
リリエが挨拶を返すと、ノルマンは再び話し始めた父親とレオンハルトをちらりと見やり、少し可笑しそうに笑った。
「父は殿下がお見えになると、いつも話が長くなりましてね。よろしければ、その間に店をご覧になりますか?」
「……よろしいのでしょうか」
「もちろんです」
そうしてノルマンは、二人の話が終わるまでの間、店内に並ぶ花々を案内してくれることになった。
「花はお好きですか?」
「はい。花を見ていると、心が安らぐ気がして」
「不思議と気持ちを和らげてくれますからね」
ノルマンに案内されながら奥へ進んでいくと、入口付近とはまた違った花が目につくようになった。
細い茎の先に鈴のような白い花を連ねたものや、淡い紫から深い藍へと色を変える、小ぶりな花。雪の結晶を思わせる白銀の葉を持つものまである。
どれも、母が愛したセレスティア家の庭でも、宮殿の庭園でも見た覚えがなかった。
珍しくて、リリエは自然と歩みを緩める。
「この辺りでは、あまり見ない花ですね」
「お気づきになりましたか」
ノルマンは嬉しそうに目を細めた。
「西部に古い知人がおりましてね。山間や高地でしか育たない花を、時折こちらへ送ってもらっているんです。王都では、ほとんど出回りません」
なるほど、とリリエは小さく頷いた。どうりで、この辺りで見ない花だ。
(西部といえば)
リリエはふと思い出し、店内をすいと見渡した。
「カレンデュラやベロニカなども、西部の花ですよね…?」
「おや、よくご存じですね。それらは寒さにも強い花ですから、西のさらに向こう、雪深い地方でも育てられているんですよ」
その名は、幼い頃に母から贈られた『花綴り』の中で見たことがあった。
厳しい寒さの中でも根を張り、時には雪解けを待たずして花をつけるものもあるのだという。
リリエが花を好きになったのも、元を辿ればあの一冊がきっかけだったのかもしれない。頁を捲るたび、見たこともない花が次々と現れる。それが幼い頃は楽しくて仕方がなく、何度読み返しても飽きることがなかった。
「ありがとうございました」
「いえ。これほど楽しそうに見ていただけるなら、こちらとしても嬉しい限りですよ」
結局ノルマンは、飽きる暇もないほど沢山の花を見せてくれた。
それほどまでにレオンハルトと老店主の話が長かった、という意味でもあるのだが、花好きのリリエにとっては願ってもない時間だった。
まるで、あの『花綴り』の頁の中を実際に歩いているようだ。
(もっと見ていたって、きっと飽きないわ)
すっかり気分をよくしてレオンハルトのもとへ戻る。どうやら向こうも用事を終えたらしく、先ほどこちらを呼んだところだった。
「待たせてしまってすまない」
「いえ。たくさんのお花を見られましたので」
「そうか、ならよかった」
随分長く待たせたことを気にしていたのだろうか。僅かに下がっていたように見えた眉も、リリエの返事を聞くなりすぐに元へ戻った。
こうしてレオンハルトが誰かと長く話し込んでいる姿を見るのは、クロード以外では初めてかもしれない。もっとも、クロードと一緒にいる時は、彼の冗談にレオンハルトが面倒そうに付き合っている場面ばかりで、真面目な仕事の話以外では、冗談を言い合ったり、くだけた話をしているところをあまり見たことがない。
(最近は、私自身が書斎へ伺うことも少なくなっていたものね)
二人が何を話していたのかまでは分からない。
ただ、レオンハルトの手には、いくつかの苗を収めた袋が握られていた。
一瞬、持とうかと思ったものの、先ほど荷物持ちではないと呆れられたばかりだ。リリエは伸ばしかけた手を大人しく引っ込めた。
店を出ると、まるで頃合いを見計らっていたかのように、少し離れた場所で従者と馬車が待っていた。
この辺りは元より人通りが少ないらしい。先ほどまでの催しの賑わいも遠く、静かな坂道には木々を揺らす風の音ばかりが聞こえている。
やはりここは、皇家と深い縁のある店なのだろう。
迎えに来ていた馬車も、普段宮殿で使われるものほど豪奢ではなく、今日のために装飾を抑えたものだった。それでもよく見れば、扉の隅にはラヴィリエ皇家の紋がさりげなく刻まれている。
つい先ほどまで市井の人々に混じって歩いていたというのに、それを目にした途端、今日一日がもう随分と遠い出来事のように感じられた。
「まだ見たいものがあったか?」
差し出された手にも気づかず、ぼんやりと紋章を眺めていたせいだろう。
レオンハルトは小さく首を傾げた。
「どこに行きたい。ここなら菓子屋も近くに――」
「い、いえ、殿下……! もう大丈夫です」
思わず大きく首を横に振る。今日はもう十分すぎるほど色々なものを見せてもらった。それに、そろそろ屋敷へ戻らなければ、ハンナたちも心配しているだろう。
「……」
てっきりそのまま馬車へ乗るものと思っていたのに、レオンハルトは何も言わず、じっとリリエの顔を見つめていた。先ほどの彼を真似るように、今度はリリエが首を傾げてみせる。
もしかして、自分を口実にして、まだどこかへ寄りたかったのだろうか。普段から忙しそうにしている彼のことだ。こうして気ままに街を歩く機会など、そう多くはないはずである。もしそうなのだとしたら、今日という一日を楽しんでいたのが自分だけではないのだと分かって、リリエは少しだけ嬉しくなった。
「ドレスを買いに行くぞ」
「……ドレス?」
「ああ。約束、破ったからな」
どこか子どものように僅かにむっとした顔をされ、リリエは、はて、と記憶を辿る。
「あっ」
小さく声が漏れた。
そういえば城下町へ入る前、ここでは『殿下』と呼ぶなと言われていたのだった。かといって名前で呼ぶ勇気もなく、なるべく彼の後ろから離れずについて歩くことで、呼びかけそのものを避けていたというのに。
(まだ続いていたのね……)
「申し訳ございません、すっかり――」
「謝るとドレスが増えるぞ」
「……え、ええと」
思わず視線が泳いだ。
これ以上ドレスが増えても困る。身体はひとつしかないのだし、毎日違うものを着たところで、とても着きれそうにない。
どうしたものかと、胸の前で両手を小さく組み、しばし考え込む。
――彼は、そんなに名前で呼ばれたいのだろうか。
ちらりと横を見れば、従者は何を言うでもなく、静かに二人を待っている。主人を急かすつもりなど毛頭ないらしい。
とはいえ、ここも城下町の一角である。
いくら人通りが少ないとはいえ、この従者と馬車を見れば、勘のいい者なら何かしら察するかもしれない。ここでレオンハルトの正体が知られれば、それこそ街は大騒ぎになるだろう。
(ええい)
リリエは意を決して、差し出された手へ自分の手を重ねた。
「帰りましょう。
………………、れ、レオ」
たっぷり数拍の間を空け、ようやく最後の二文字を絞り出す。
本当にこんな呼び方をして失礼ではないのだろうかと、不安になりながら、おずおずと背の高い彼を見上げる。いつもは涼やかで隙のないレオンハルトの顔が、見る間に柔らかく綻んだ。
色々書きたいことが溜まりすぎて時間かかってしまいました…




