憂いのため息
ハンナがそわそわと落ち着かない――そんな話は、案外すぐにクロードの耳へ入った。
二人が宮殿を出てから、まだほんの一時間ほどしか経っていない。だというのに、ハンナは先ほどから窓の外を眺めては小さくため息をつき、時折、何かを考え込むようにぼんやりと宙を見つめているらしい。
最初にその異変に気づいたのは、リネットだった。
レオンハルトが出掛ける話を持ちかけた際、最も近くでそのやり取りを聞いていたリネットと、少し遅れて用事を終え部屋へ戻ってきたアイリスは、事情を知るなり揃って目を輝かせた。久方ぶりの外出、それもレオンハルト直々の誘いとあって、二人は俄然張り切ってリリエの召し替えに取りかかったのである。
とはいえ、今日の目的は身分を隠して城下町へ赴くこと。いつものように着飾らせるわけにはいかない。
そこで選ばれたのは、以前カーターから買い受けた衣装の中でも、とりわけ意匠の控えめな一着だった。装飾こそ質素だが、生地そのものは柔らかく仕立てもよい。髪も普段のように凝った結い方はせず、ひとつに纏め、細いリボンを結ぶ。
これならば、どこから見ても少し裕福な町娘――になるはずだった。
「奥様がお美しすぎて、何をお召しになっても似合ってしまいますわね…」
「ええ、本当に」
二人は揃って憂いを帯びたため息を零した。
一見すれば主人を溺愛する侍女たちの贔屓目にも思えるが、残念ながらこれは紛れもない本音である。華美な宝飾品もなければ、髪に飾ったのは細いリボンがひとつきり。それでも素材のよさばかりは、どうしたって隠しようがない。どうにかこれ以上目立たせまいと試行錯誤を重ね、ようやく身支度を終えた頃、遅れてやってきたシャーロットも完成したリリエを一目見るなり、やはり同じように憂いのため息を零した。
美しいのだ。あまりにも。
一方、その頃のハンナはといえば、クロードのもとで少しばかり話し込んでいた。そのため、リリエが出掛けたと知ったのは、彼女を乗せた馬車がとうに宮殿を離れた後のことだった。
リネットから事の次第を聞かされたハンナは、しばらく口をぽかんと開けたまま動かなかったという。
そして、ようやく我に返った彼女が嘆くように零した第一声は、
『……奥様のお召し替えを、この私が……』
「ハンナ様、そう落ち込まないでくださいまし」
「ええ、本当に……奥様はきっといまごろ、城下町を楽しんでおられます故」
「お土産話を楽しみに待ちましょう」
クロードがリリエの部屋の前を通りかかったのは、ちょうど三人の侍女たちが、すっかり肩を落としたハンナを励ましているところだった。
けれど当のハンナは、今日何度目とも知れないため息を零すばかり。やがて再び窓辺へ視線を向けると、まるで大切に育てた娘を初めて遠出へ送り出した母親のような顔で、遠くを眺め始めた。
(さっきまでは、あんなにも威勢がよかったのにな)
その姿を廊下から眺めながら、クロードはつい先ほどのことを思い返す。
まだハンナが、リリエの外出など知る由もなかった頃。
彼女はいつものようにリリエの様子を報告するため、クロードのもとを訪れていた。最初こそ侍女らしく、その日の食事や体調、変わった様子がなかったかを順序立てて報告していたものの、それが終わる頃には何やらうずうずと落ち着かない様子で、クロードが内容を書き留める手元をじっと見つめていた。
そして、ペン先が紙の上で止まるや否や――待っていましたと言わんばかりに、リリエの話を始めたのである。
今日は朝食を昨日より多く召し上がっただとか、昨日は久しぶりに刺繍へ手を伸ばしてくださっただとか。ひとつ話し終えれば、そういえば、とまた次が出てくる。その語り口たるや、もはや報告というより、可愛がっている娘の話を誰かに聞かせたくて仕方がない母親そのものだった。
(雛鳥を見送った親鳥だな、あれは)
もっともクロードは、レオンハルトが今日リリエを連れ出すことを最初から知っていた。
教えてやろうかとも思ったが、嬉々として話すハンナの様子を見ているうちに、まあいいか、と口を噤んだのである。
結局そのまま、彼女の話が尽きるまで付き合ってやったのだった。
やがてひとしきり憂いていたハンナも、いつまでもそうしてはいられないと思い直したのか、ようやく自身の責務へと戻っていった。
リリエが不在のうちにと部屋をいつにも増して丁寧に整え、衣装棚に収められたドレスを一着ずつ確認しては並べ直し、ここ数日で届いた招待状にも目を通していく。先日の舞踏会以来、リリエのもとへ届く茶会や晩餐会への招待状は随分と増えており、それらを差出人や日取りごとに仕分けていくだけでも、それなりの仕事になった。
「何かお手伝いいたしましょうか」
あまりにも黙々と働き続ける姿を見かね、シャーロットがそう申し出る。
けれど、ハンナは招待状を揃える手を止めることなく、静かに首を横へ振った。
「私の自己満足だから、大丈夫よ」
そう言われてしまえば、それ以上は何も言えない。
結局、リネットとアイリスを伴ってそっと部屋を後にしたものの、三人揃って扉の向こうを名残惜しそうに振り返っていた。
「はは。彼女は本当に、リリエ嬢を愛しておられる」
手持ち無沙汰になったらしい三人を茶室へ連れ出したクロードは、先ほどの光景を思い返しながら、くつくつと喉を鳴らした。
主人が不在で急ぎの仕事もひと段落している。それならば少しくらい休憩しても構わないだろうと、いつまでもリリエの部屋の前で佇んでいた三人へ、クロードの方から茶に誘ったのである。
ラヴィリエ宮は、皇家に仕える者たちの規律こそ厳しいものの、休息に関しては比較的寛容だった。主人の不在時に与えられた仕事をすべて終えた後や、時にはレオンハルト本人から「邪魔だ」と追い払われた時など、こうして使用人同士で茶を囲むことも珍しくはない。
クロード自身は執事ではないものの、皇太子の側近として宮中の者たちへ指示を出す機会も多い。そんな彼が構わないと言っている以上、三人が遠慮する理由もなかった。
「あんな風になられるハンナ様を、初めて拝見しました」
リネットがしみじみと零せば、その隣で紅茶を口にしていたアイリスとシャーロットも、揃って何度も頷いた。
「彼女はあまりにも従順すぎる」
クロードが可笑しそうに笑う。
すると、それまで大人しく話を聞いていたアイリスが、ティーカップを両手で包みながらぽつりと呟いた。
「……でも、奥様は本当にお優しくて、お美しくて……」
「刺繍もお上手ですし、私たちにも分け隔てなく接してくださいますもの」
「ねぇ。本当に素敵な方ですわ」
ひとりが口を開けば、堰を切ったように次々と賛同の声が上がる。
先ほどまでハンナのことを心配していたはずなのに、今や三人とも頬を緩ませ、瞳をきらきらと輝かせながら主人の美点を並べ始めていた。
(まるで恋する乙女だな)
紅茶を口へ運びながら、内心で苦笑する。これではハンナとそう変わらない。
もっとも、普段の話しぶりを聞いている限り、リリエへの入れ込みようではハンナが頭ひとつ抜けている。それでも目の前の三人もまた、少し違った意味で随分と主人に夢中らしい。主人を疎み、職務を疎かにする使用人を抱えるより、何十倍もいい。むしろこれほど慕われているのなら、側近としても安心できるというものだ。
「それならよかった」
クロードが穏やかに笑いかけたところで、ふと、リリエには人を惹きつける何かがあるのだろうか、という考えが脳裏を過った。
人を惹きつける、という意味ならば、クロード自身もよく知っている。
レオンハルトとはまた違った華やかさのある整った容貌に、身分を問わず柔らかく接する気質。そのため宮廷内外を問わず、クロードへ密かに想いを寄せる令嬢や侍女は少なくない。
だからこそ、皇家のすぐ傍で仕える者ほど、能力だけでなく節度も求められる。
(主や側近に恋などしてしまえば、仕事にならないからな)
そう考えながら改めて目の前の三人を見れば、揃いも揃って夢中になっている相手は、よりにもよって自分たちの主人である。もっとも、それは恋情とはまるで異なる、純粋な敬愛と忠誠心から来るものだ。職務に支障をきたすどころか、彼女たちの場合はむしろ働く原動力にすらなっているのだから、咎める理由などどこにもない。
(ハンナ・メルディアに至っては、少々重度だとは思うが)
城内でも特に人気の高いクロードを目の前にしてさえ、彼女たちの話題は最初から最後までリリエ一色。
ちなみにこの三人、クロードはおろかレオンハルトにすら、異性としては微塵も興味がない。
「仕えるのがあなたたちでよかった」
「わたくしたちも、お仕えする方が奥様でよかったですわ」
「奥様のためでしたら、何だっていたしますもの」
「ハンナ様も、きっと同じお気持ちですわよね」
三人は顔を見合わせると、嬉しそうに笑い合う。
やがて誰からともなく胸元で両手を合わせ、まるで示し合わせたかのように頷く姿には、何とも言い難いほど強固な忠誠心が滲んでいた。
どうやらリリエ本人が思っているよりもずっと、彼女はこの宮殿で愛されているらしい。




