城下町のアンサンブル
馬車を降りると、夏の穏やかな風がリリエの頬を撫でた。
そこは下町へ続く大通りの、ほんの少し手前。人目を避けて身分を隠すため、先に馬車を降りたレオンハルトが直々に差し出した手を取り、リリエもまた地面へと降り立つ。そうして顔を上げた途端、目の前に広がった光景に、サファイアの瞳が僅かに輝いた。
初めて目にするその街は、宮殿のある王都中心部ほど華やかではないものの、どこか素朴で愛らしい趣があった。淡い色合いの小さな家々が肩を寄せ合うように並び、その合間を縫うように瑞々しい木々が枝葉を広げている。足元には大小さまざまな石を組み合わせた石畳が美しい模様を描き、窓辺や軒先には色とりどりの花が揺れていた。
幼い頃、まだ自由に本を読むことのできた時分に目にした、おとぎ話の挿絵によく似ている。
現実の街であるはずなのに、まるで頁の向こうへ迷い込んでしまったかのような幻想的な眺めに、リリエは知らず知らずのうちに辺りを見回していた。
その場所から少し歩けば、今日の催しに合わせて開かれたのだろう露店が通りの両側へ賑やかに軒を連ね、どこからともなく軽やかな音楽も聞こえてくる。焼き菓子や果実を並べた店、見慣れない硝子細工や色鮮やかな布を吊るした店、その間を楽しげに行き交う人々の声までが混ざり合い、普段リリエが過ごす宮殿とはまるで異なる活気に満ちている。
城下町とはいえ、次期皇帝たる皇太子が何の前触れもなく姿を現すなど、本来ならばあり得ないことである。そのため今日の二人は身分を悟られぬよう、普段よりもずっと軽やかな装いに身を包んでいた。
――もっとも、元より見目麗しい二人は、どんなに簡素な装いですら着飾ってしまうが。
催しの入口を前に、レオンハルトは近辺まで付き従っていた護衛たちへ、ここから先は離れるよう短く指示を出した。今日の二人は、あくまで催しを楽しみにやって来た市井の男女という体である。護衛を何人も引き連れて歩いていては、身分を隠す意味などない。
もちろん、本当に二人きりになるわけではなかった。万一の事態があればすぐに駆けつけられるよう、護衛たちは既に装いを変え、催しの至るところへ人混みに紛れる形で配置されている。
「……あの、殿下」
「言い忘れていた。『それ』、ここではやめろ」
「…は、はい、?」
何かを尋ねようとした矢先に言葉を遮られ、リリエはぱちりと瞬きをした。『それ』とは、一体どれのことだろう。
「ここでは私たちの身分は隠しているだろう。今の立場は、ただ催しに訪れた市井の人間だ。それなのに殿下と呼ぶのはおかしいだろう」
「……!」
まるで心の内を読まれたかのように答えを返され、リリエは慌てて口元を押さえた。確かにその通りだ。これほど人の多い場所でうっかり『殿下』などと呼べば、せっかく身分を隠している意味がなくなってしまう。
けれど、それならば一体、何と呼べばよいのだろう。
新たな疑問が浮かび、困り果てたままレオンハルトを見上げていると、
「レオ、とでも呼ぶか」
あまりにもさらりと言われたものだから、一瞬、何のことか分からなかった。それが『レオンハルト』を縮めた愛称なのだと気づいたのは、きっかり三秒ほど経ってからのことだった。
リリエは勢いよく首を横に振った。いくら身分を隠すためとはいえ、次期皇帝たる皇太子を愛称で呼ぶなど、あまりにも不躾である。それも、よりにもよって『レオ』だなんて。考えただけでも恐れ多く、じわじわと冷や汗を滲ませるリリエを見下ろしていたレオンハルトは、やがて堪えきれなくなったように「ふは」と笑った。
不意に見せられた笑みに、胸がひとつ、大きく高鳴る。
きっと慣れない場所へ来た緊張のせいだろう。そう思うことにして、リリエはそっと胸元へ手を添えた。
「ほら、行くぞ。名前で呼ばないなら、お前のドレスが増えるからな」
「…えっ……」
それは確か、『申し訳ございません』と言うたびに増える罰だったのではなかろうか。いつの間に新たな規則が追加されたのだろうと困惑しているうちに、すいと手を取られた。
レオンハルトは何でもないことのようにその手を引き、賑わう街へ向かって歩き出す。
あまりにも自然で軽やかなエスコートに、先ほどまで胸の内を占めていた緊張は、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
その代わり、何故だか別の意味で胸が落ち着かなくなってしまったけれど――それについて深く考えることはせず、リリエは繋がれた手に導かれるまま、レオンハルトの半歩後ろを歩いていった。
催しは国を挙げて行われるほど大々的なものではないものの、決して小規模というわけでもないらしい。通りには普段この辺りでは目にすることのない異国の品々が並び、中には遠方から運ばれてきた珍しい品を目当てに、長い列を作っている店もあった。
けれど、リリエにとってそれらは、どこか遠い世界のものだった。
元より物欲が強い方ではない。それに、セレスティア家にいた頃は、自分のために何かを欲しがることなど許されてこなかった。美しいものを見ても、それを手にしたいと思うより先に、自分には関係のないものだと考える癖が、いつしか染みついてしまっている。
異国から運ばれてきたという珍しい宝石にも、精緻な刺繍を施した意匠布にも目は留まる。初めて見るものばかりなのだから、綺麗だと思わないわけではないし、珍しさに心を惹かれることもある。
ただ、それだけだった。
綺麗だと思えば眺め、珍しいと思えば少しだけ足を緩める。それ以上を望むこともなく、リリエは相変わらず繋がれたままの手に導かれて、人々の間を縫うように歩いていった。
しばらく進んだところで、不意にレオンハルトが足を止めた。
そこは通りの一角に構えられた、小さな菓子店だった。軒先では大きな鍋から薄く湯気が立ち昇り、熱した油の香ばしさに、砂糖と仄かな香辛料の甘い匂いが混じっている。揚げたてらしい菓子が籠の中へ次々と並べられ、その表面には雪のような白い砂糖が惜しげもなくまぶされていた。
「これ、ひとついただけるか」
「はいよ!」
威勢よく答えた女店主を前に、レオンハルトはリリエの手を離そうともせず、空いた片手だけで手際よく代金を渡した。
「デートかい? 仲良しだねぇ」
包みを差し出しながら女店主がにこやかに笑う。
あまりにも屈託なく言われたものだから、リリエは返答に窮し、内心ひやひやしながら曖昧に微笑んで小さく頭を下げた。
デートだなんて、とんでもない。自分はただの付き添いだというのに。
店主の勘違いをわざわざ訂正するのも妙だろうと口を噤み、レオンハルトが受け取った紙袋へ、ごく自然に手を伸ばした。
「食べるか?」
「……? いえ、荷物持ちを」
何気なく答えた途端、レオンハルトの動きが止まった。
怪訝なものでも見るような眼差しが向けられ、リリエもまた、伸ばした手を宙に浮かせたまま首を傾げる。
「…まさかとは思うが、荷物持ちでここに呼ばれたと思っているのか?」
問われ、リリエは小さく頷いた。
むしろ、それ以外に自分を連れ出す理由が思いつかなかったのだ。催しへ出掛けるというレオンハルトに同行し、必要があれば荷物を持つ。それならば自分にもできるし、わざわざ連れてこられた理由としても筋が通っている。
けれど、彼の顔を見る限り、どうやら違ったらしい。何となく気まずくなってそっと目を逸らすと、レオンハルトは額へ手を当て、深く息を吐いた。
やがて諦めたように手を下ろすと、先ほど店主から受け取った紙袋を、そのままリリエへ差し出す。
「食べてみろ、それ」
「……え」
「いいから」
言われるまま受け取ったものの、リリエは戸惑ったまま紙袋とレオンハルトを交互に見つめた。
食べる、と言われても、そもそも中に入っているものが何なのかすら分からない。
ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、とうとうじれったくなったらしいレオンハルトが紙袋を覗き込み、中からひとつ摘まみ上げた。
「ほら、口を開けろ」
「あの――」
何を、と尋ねる間もなかった。
反射的に開きかけた唇へ、ひょいと菓子を放り込まれる。
驚いて目を丸くしながらも、おずおずと噛み締めれば、さくりとした薄い表面の内側から、まだ温かな生地の柔らかさが広がった。続いて舌の上でさらりと溶ける砂糖の甘みと、油の香ばしさが重なる。
初めて口にする味だった。
思いがけない美味しさに、リリエの瞳がぱっと輝く。
「美味しいか?」
答えようにも、まだ口の中には菓子がいっぱいに入っている。
仕方なくこくこくと何度も頷けば、それだけで十分伝わったらしい。レオンハルトは意外にも満足そうに目元を和らげ小さく笑った。
そのまま伸びてきた指先が、リリエの口元へ触れる。
何をされたのか分からず固まっているうちに、唇の端についていた砂糖を親指でそっと拭われた。
人波の合間を縫うように歩くレオンハルトの足取りには、どこか城下町に慣れているようなところがあった。
露店が軒を連ねる長い通りを迷うことなく進んでいたかと思えば、ふと足を止め、店先に並べられた品をじっと眺める。そうして再び歩き出したかと思えば、何かが気になったらしく数歩戻って別の店を覗き込んだりと、先ほどから随分と忙しない。
普段、宮殿では何事にもさほど興味を示さず、必要なことだけを淡々とこなしている姿ばかりを目にしているせいだろうか。心なしか彼自身も、この催しを楽しんでいるようにリリエの目には映った。
そんなレオンハルトに手を引かれながら歩いていたリリエは、ふと、先ほどから妙に多くの視線がこちらへ向けられていることに気がついた。
身分を悟られぬよう装飾を控え、市井に馴染む軽装へ着替えたところで、どうやら彼の容姿まで人並みに紛れ込ませることはできないらしい。
現に、たった今すれ違った二人の若い娘も、レオンハルトを目にするなり揃って頬を染め、通り過ぎてからも名残惜しそうに何度も振り返っている。
街を行き交う人々の様子を見る限り、彼が皇太子レオンハルトであると見抜いた者はいないようだった。それでも、民衆に紛れて周囲へ配置された護衛たちは、彼へ向けられる視線が増えるたび、さりげなく警戒を強めている。それが仕事なのだから当然なのだろうが、何となく気の毒にも思えてしまう。
(当のご本人は……)
そんな周囲の騒めきなど知ったことではないとばかりに、気になる露店を見つけては足を向け、何かを眺めて、また歩き出しては立ち止まる。
もちろん、その間もリリエの手は繋がれたままだ。
片手には先ほどの揚げ菓子が入った紙袋を抱え、もう片方の手はレオンハルトに預けたまま、リリエはされるがままに彼の後をついて歩く。
自分が何かを買う用などないのだから、特に困ることもない。そもそも今日は彼の付き添いとして連れてこられたのだろうし、荷物持ちではないらしいということだけは分かったものの、それならば自分がここにいる理由については未だによく分からないままだった。
ひとまず、彼が満足するまで付き合っていればよいのだろう。そう結論づけたところで、少し先を歩いていたレオンハルトが不意に足を止めた。
つられるようにリリエも立ち止まり、その視線の先を追う。
そこには、周囲の露店とは少し趣の異なる一軒の店があった。深い色合いの木枠で縁取られた大きな窓の向こうには、繊細な硝子細工や小さな陶器、刺繍を施した小物などが所狭しと飾られている。軒先から吊るされた真鍮の飾りが夏風を受け、しゃらりと涼しげな音を鳴らした。
「入るか」
「はい」
何の店なのだろう、とリリエが看板を見上げるより早く、繋がれた手が軽く引かれる。
扉を開けば、頭上で小さなベルがからん、と鳴った。
レオンハルトに続いて店内へ足を踏み入れたリリエを迎えたのは、外の賑やかさとは打って変わった静けさと、木材や香草の入り混じった、どこか懐かしい香りだった。




