夏風のお誘い
朝食の時間。
ダンス講師のシャルネットから「まずは信頼関係を築くこと」と言われて以来、二人で朝食を取ることは、もはや恒例となりつつあった。
本来であれば、レオンハルトは朝餐の席でヴィオラやユリウスと食事を共にすることになっている。けれど、いくら政略によって結ばれた間柄とはいえ、迎え入れた妻を放置するなど言語道断だと、朝だけはこうしてリリエの部屋を訪れるようになったのだ。
そして今朝もまた、二人はいつもと変わらず同じ食卓を囲んでいる。
――少なくとも、傍目にはそう見えるだろう。
舞踏会を終えたあの日から、リリエの気分はどこか沈んだままだった。
セシリアから投げ掛けられた言葉は、まるで喉の奥につかえた魚の小骨のように、取り除こうとするほど深く刺さっていつまでもリリエを苛んでいる。
もちろん、すべてを鵜呑みにしたわけではない。
それでも、一度胸の内へ入り込んでしまった疑念というものは厄介だった。
少し前まではレオンハルトを前にしても自然と笑えるようになっていたはずなのに、今では何か言葉を交わすたび、無意識のうちにその表情を窺ってしまう。
こうして一緒に食事をすることすら、本当は煩わしく思われているのではないか。そんなことばかりを考えていれば、自ずと食欲まで失せてくるものだった。
リリエの前には、まだ温かな湯気を立てる粥が置かれている。
ここ数日、まともに食事が進まないリリエを気遣い、ハンナやレオンハルトが少しでも口にしやすいものをと用意してくれたものだ。
一方、向かいに座るレオンハルトの皿には焼きたてのパンとオムレツ、新鮮な野菜を使ったサラダ、それから瑞々しい果物が彩りよく並んでいる。
自分のために、わざわざ食事まで変えてくれた。本来なら、ただその心遣いをありがたく受け取ればいいだけなのに。
――こうして気を遣ってくださることさえ、本当は面倒に思っていらっしゃるのではないか。とか、見えないところでは、厄介な女だと疎ましく思われているのではないか。それとも本当は、一日でも早くこの契約を終わらせて、ヴィオラ様を正式な妻として迎えたいと思っていらっしゃるのではないか――と。
一つ疑えば、また一つ。
考えたところで答えなど出るはずもないのに、疑念は次から次へと胸の内へ湧き上がり、そのたびに胃の腑を内側から掻き回されるような、むかむかとした不快感に襲われる。
きっと、食べなければ心配を掛けてしまう。心配を掛ければ、また余計な手間を取らせてしまう。
そう思えば思うほど焦り、焦ればますます喉を通らなくなる。
気付けば、粥を掬っていた手はとうに止まり、白い粥の表面に僅かな波紋だけが残っている。
次期皇帝たるレオンハルトを目の前にして、せっかく用意された朝食を残すなど、本来であれば失礼極まりないことだろう。
あと一口だけでも。と、そう自分に言い聞かせ、もう一度匙を持った手を動かそうとするけれど、どうしても手に力が入らない。
リリエは結局、僅かに俯いたまま、冷め始めた粥を見つめることしかできなかった。
朝食をほとんど口にしなかったことについて、何か言われるものだと思っていた。けれど、意外にもレオンハルトは何も言わなかった。
食事は驚くほどあっさりと下げられ、代わりに用意されたのは、優しい蜂蜜の香りが漂う温かなミルクティーだった。食べろと咎められることも、理由を尋ねられることもない。
それが有難いような、かえって申し訳ないような気持ちになりながら、リリエは両手でカップを包み込んだ。
レオンハルトは朝食を終えると、一度部屋を後にした。
だから、今日はもう顔を合わせることもないだろうと思っていたのだが――午後の茶の時間を迎えるころ、彼は再びリリエの部屋を訪れた。
その少し前、クロードへ何やら伝言を届けるため、ハンナは部屋を離れていた。
代わりに傍へついていたのはアイリスだったが、彼女もまた茶の支度のために忙しなく部屋を出入りしている。
季節は夏の半ば。とはいえ今年の夏は例年に比べて涼しく、随分と過ごしやすい日が続いていた。
開け放たれた窓からは爽やかな風が流れ込み、薄いカーテンをふわりと膨らませては、ソファに腰掛けるリリエの頬や髪を優しく撫でていく。
窓の向こうには、夏の日差しを浴びた庭園が広がっていた。
そういえば、もう随分と庭へ出ていない。
随分と――といっても、舞踏会の日からだから、半月ほどだろうか。
以前なら、天気の良い日には薔薇の様子を見に庭へ出ることも多かったというのに、この半月は部屋の窓から眺めるばかりだった。
夏のせいだろうか。
どうにも頭がぼんやりする。
何をするでもなくソファに腰掛け、風に揺れる木々を眺めていたのが、つい先程までのことだった。
やがて廊下の向こうが俄かに騒がしくなったかと思えば、ほどなくして扉が開く。顔を覗かせたのは、廊下の掃除をしていたはずのリネットだった。どうやら仕事の最中、こちらへ向かってくるレオンハルトと鉢合わせたらしい。皇太子を一人で部屋へ通すわけにもいかず、慌てて案内役を務めることになったのだろう。
どことなく緊張した面持ちのリネットの後ろから、見慣れた長身が姿を現したところで、リリエは慌てて立ち上がる。
ところが、出迎えの言葉を口にするより先に、レオンハルトはそのままでいいと言わんばかりにリリエを元の場所へ座らせると、ずんずんと勝手知ったる様子で部屋の奥へ進んでいった。
そうしてバルコニーにほど近い窓辺の椅子へ腰掛ければ、長い脚を組み、暫くは何を言うでもなく庭園を眺めていた。
何をしに来たのだろう。
リリエは最初こそどうしたものかと戸惑っていたが、やがて庭を眺めるレオンハルトの目元が僅かに和らいだのを見て、少なくとも怒っているわけではないらしいと判断する。
それならば、下手に何かを尋ねない方がいい。
そうしてリリエも大人しくソファへ座り続けた。
暫くの間、部屋には夏風がカーテンを揺らす音だけが流れていた。
やがて、レオンハルトが口を開く。
「……出掛けるか」
それまで沈黙に包まれていたせいか、低い声がやけに大きく響いたように思えた。
(出掛ける…)
思いがけない言葉を、リリエは心の中でもう一度繰り返す。
「城下町で、催しが開かれているらしい。珍しい花々や、異国の茶菓子も並ぶそうだ」
「……」
リリエは小さく頷いた。
返事をしたくないわけではない。ただ、何と答えるのが正しいのか分からなかったのだ。
城下町の催しなど、リリエには縁のない話だった。
セレスティアにいたころは、そもそも屋敷の外へ出ること自体ほとんど許されていなかったし、宮殿へ来てからも庭園より先へ足を延ばしたことはない。少し気にはなったものの、レオンハルトがそれを自分へ話している理由までは分からなかった。
「その催しは年に二度、夏と冬に行われている」
「…そうなのですね」
「それで、出掛けようと思うんだが」
そう告げたレオンハルトは、いつの間にか窓枠へ預けていた腕を解き、身体ごとこちらへ向き直っていた。
リリエはぱちりと瞬きをする。
出掛ける許可が必要なのだろうか。
いや、次期皇帝である彼が、わざわざ自分に許可を求める必要などない。
では、土産話でも楽しみにしていろということだろうか。それならば、ここは快く送り出すのが妻として正しいはずだ。
「……はい。いってらっしゃいませ」
よく分からないままそう答えると、レオンハルトは何故か黙った。
「?」
何か間違えただろうか。
不安になって顔を上げたところで、レオンハルトがおもむろに椅子から立ち上がる。
そのまま真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくるものだから、リリエは反射的に背筋を伸ばした。
やがて目の前まで来たレオンハルトは、未だ何も分かっていないらしいリリエを見下ろす。
「リリエ」
「…は、はい」
「お前も一緒に、だ」




