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刺さる棘

 「ここ数日、リリエの様子がおかしいな」


 静まり返った書斎に、レオンハルトの低い声がぽつりと落ちた。


 午後の陽はすでに傾き始め、重厚な窓枠から差し込む光が、執務机に積み上げられた書類の端を淡く照らしている。さらさらとペン先が紙を滑る音だけが続いていた室内で、不意に零されたその言葉に、向かいで書類を整理していたクロードの手が一瞬だけ止まった。


 しかし、何かを察したように僅かに目を細めただけで、すぐに何事もなかったかのように手元へ視線を戻す。



 舞踏会から、すでに数日が経っている。


 あの夜を境にリリエの様子が変わったことには、レオンハルトだけでなくクロードも気付いていた。


 少しずつではあるものの、ようやくこちらへ心を開き始めていたはずなのだ。それが今では、開きかけた扉を再び固く閉ざしてしまったかのように、以前のぎこちなさへと戻りつつある。


 無論、何があったのかと本人を問い詰めるような真似はしていない。


 けれど、ほんの少し前まで自然に交わせていた会話さえ、今ではどこか余所余所しい。目が合えば微笑んではくれるものの、それも以前のような柔らかなものではなく、相手の顔色を窺うような慎重さが滲んでいた。


 その変化がどうにも気に入らないのか、レオンハルトの眉間には先程から薄く皺が寄っている。



 「あの舞踏会の日から、だったかな」



 クロードが書類の束を揃えながら呟けば、レオンハルトは手元から目を上げることなく答えた。


 「原因は?」

 「本人に聞いてみたら?」


 あまりにもあっさりと返され、ペンを走らせていた手がぴたりと止まる。


 レオンハルトがゆっくりと顔を上げれば、そこには案の定、爽やかな笑みを浮かべた幼馴染の姿があった。


 皇太子を相手に、これほど遠慮のない物言いができる人間など、宮殿中を探したところでクロードくらいのものだろう。


 幼い頃から共に育ってきた彼だからこそ許されている態度ではあるが、初めて二人のやり取りを目にしたハンナなどは、クロード本人を前にして「全くもって命知らずな男ね」と冷ややかに言い放ったらしい。



 「お前、知っているだろう」


 小さく舌打ちを零し、レオンハルトが鋭い眼差しを向ける。


 クロードは悪びれる様子もなく肩を竦めた。


 「確信があるわけじゃないけど…恐らく、義妹だろうね」

 「……義妹?」



 今度こそ、レオンハルトの手が完全に止まった。


 書類の上へペンを置き、クロードへ向き直る。その表情こそ大きく変わらないものの、僅かに低くなった声だけで続きを促していることは十分に伝わった。




 あの舞踏会の日。


 華やかな宴が無事に幕を閉じた一方で、リリエは誰にも告げることなく会場を離れ、そのまま部屋へ閉じ籠もってしまった。


 ハンナに食事を運ばせても、食欲がないからとほとんど口をつけず、熱でもあるのかと医師を呼ぼうとすれば、それも必要ないと断られた。


 翌日からは食事にも応じ、普段通りに過ごしているように見えたものの、やはり何かが違う。

 会話をしていてもどこか上の空で、ふとした瞬間には酷くこちらの様子を窺っている。


 それは、初めてこの宮殿へやって来た頃のリリエによく似ていた。


 ただ一つ違うのは、あの頃のように何も期待していない無気力さだけではなく、何かを恐れているような怯えが混じっていることだった。


 それが、レオンハルトには何より気に掛かっていた。


 クロードは最後の書類を纏め終えると、その束を持って立ち上がった。



 「あの日、リリエ嬢の義妹が来ていたことは?」

 「知らん」


 即答したレオンハルトだったが、すぐに眉を顰める。


 「そもそも招待していないだろう。……誰が呼んだ?」

 「レオンハルトが知らないってことは、やっぱりどこかの伝手を使って入り込んだんだろうね」



 整えた書類を執務机の端へ置き、クロードはそのまま腕を組んだ。


 リリエについて調べを進める中で、クロードはセレスティア公爵家と、とある富豪との間に長年にわたる繋がりがあることを掴んでいた。


 表立って名を連ねるほどの家柄ではないものの、その財力と人脈は侮れない。セレスティア家が公爵家としての体裁を保ちながら、長年好き勝手な散財を続けてこられた背景にも、その存在が少なからず関わっているらしい。


 実の娘を虐げながら、自分たちは裏で贅沢三昧。


 そのうえ、自らが作った負債も悪評も娘一人へ押しつけ、最後には厄介払いでもするかのようにラヴィリエ皇家へ嫁がせた。


 社交界では、彼らが意図的に流した噂ばかりが独り歩きしている。そのせいで、当のリリエ自身は何も知らぬまま悪女の汚名を着せられ、ここへ送り込まれたのだ。


 調べれば調べるほど、胸糞の悪い話だった。



 クロードはあの日、リリエの義妹がこの宮殿へ乗り込んできていることを知っていた。


 見つけ次第、騒ぎを起こすことなく速やかに退場させるよう護衛にも話を通していたのだが、よりにもよって自分がレオンハルトの傍を離れられなかった、ほんの僅かな隙を突いてリリエへ接触していたらしい。


 庭園へ続く階段を駆け下りてきたリリエとぶつかったのは、その直後だった。


 あの時の彼女は酷く取り乱していた。


 顔からは血の気が失せ、何かに怯えているようにも、深い絶望に沈んでいるようにも見えた。普段のリリエであれば、たとえ自分に非がなくとも真っ先に謝罪の言葉を口にするだろうに、あの時ばかりはそれすら覚束ないほどだった。


 その顔を見た瞬間、クロードにはおおよその見当がついていた。


 とはいえ、義妹と何を話したのかまでは分からない以上、確信があったわけではない。


 それに、敢えてレオンハルトへ報告しなかったのには、もう一つ理由がある。


 リリエ自身が何事もなかったように振る舞い、あの日のことを隠そうとしていたからだ。


 無理に踏み込み、事情を知ったレオンハルトが彼女の周囲へ制裁を加えるようなことになれば、リリエはきっと喜ばない。


 むしろ、自分のせいで、と己を責めるだろう。


 ようやく少しずつ人を頼ることを覚え始めた彼女に、今ここで無理やり口を開かせる必要はない。


 クロードはそう判断していた。


 それを察したように、レオンハルトは苛立った様子で舌打ちを零した。



 「…あの日、リリエの義妹がどうやって会場へ入り込んだのか、くまなく調べろ。誰の名を使ったのか、誰が手を貸したのかも全部だ」


 低く落とされた声に、それまで僅かに残っていたクロードの軽い表情が消える。


 「仰せのままに。ただ、リリエ嬢には――」

 「分かってる。何も言わん」


 遮るように返された言葉に、クロードは一瞬目を丸くした。


 けれど、すぐにふっと表情を緩める。


 「……さすがです、殿下」

 「さっさと行け」

 「はいはい」


 追い払うようにシッシと手を振られ、クロードは小さく笑いながら一礼する。


 そうして調査へ向かうべく書斎を後にすると、重厚な扉が静かに閉ざされ、室内には再び一人分の静寂だけが残った。


 レオンハルトはしばらく書類へ視線を落としていたものの、先程までのようにペンを取る気にはなれなかった。


 脳裏へ浮かぶのは、舞踏会の夜に見せたリリエの笑顔と、この数日こちらの顔色を窺うようになった彼女の姿ばかり。


 ようやく、少しずつ笑うようになったというのに。


 「……面倒なことをしてくれたな」


 誰に聞かせるでもなく低く呟き、レオンハルトは不機嫌そうに目を細めた。


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