憂鬱
ぼんやりと、刺繍を施したハンカチへ視線を落とす。
丁寧に縫い込まれた薔薇の花弁の間には、レオンハルトから贈られた刺繍糸の中に混じっていた金糸が使われており、窓から差し込む陽の光を受けるたび、きらきらと淡い輝きを返していた。
その美しさを眺めているはずなのに、リリエの胸は少しも晴れなかった。
――舞踏会が終わってから、早くも数日が経とうとしていた。
あの日、自分がどうやって部屋へ戻ったのか、リリエはほとんど覚えていない。
ただ、これ以上あの場にいることができなくて、逃げるようにバルコニーから庭園へ続く階段を一目散に駆け下りたことだけは覚えている。
そして、冷たい夜風に当たろうと庭へ出ていたクロードに、勢い余ってぶつかった。
『リリエ嬢、どうかされましたか?』
そう、声を掛けられた気がする。
けれど、それすらも今となっては霞がかった記憶のようだった。
(…なんて情けない)
あの日から、セシリアの言葉が頭から離れない。
本来ならば、もっと早くに割り切れていたはずなのだ。
自分とレオンハルトの婚姻が政略によるものだということなど、最初から承知していた。そもそも一年限りの契約であり、それが終わればこの宮殿を去ることになる。
むしろ、当初のリリエはその時を心待ちにしていたくらいだった。
契約の終了に伴い、リリエには十分な慰謝料が支払われることになっている。
皇太子との婚姻という国の威信にも関わる契約へ協力したこと、そして契約終了後の生活を支えるための金銭を合わせれば、一生を何不自由なく暮らせるほどの額になるだろう。
一国の次期皇帝、その正妻という立場に一度でも名を連ねることは、それだけで大きな意味を持つ。
たとえ一年限りの契約であったとしても、その婚姻が国中へ知れ渡ることに変わりはない。ラヴィリエ国内はもちろん、隣国にまでその名が届くことになるだろう。
だからこそ、契約が終わった後のリリエに、新たな縁談が舞い込む可能性は限りなく低い。
元皇太子妃、それも次期皇帝の正妻であった女性を、軽々しく妻に迎えようとする貴族などそう多くはないだろう。
けれど、それで構わなかった。
リリエ自身、これまで結婚というものに憧れたことはない。
誰かに嫁ぐことも、愛されることも、とうに諦めていた。
だから――契約そのものについては、今さら何を言われたところで傷つくはずなどなかった。
それなのに。
リリエの心を深く傷つけたのは、契約が終わるという事実ではない。
セシリアが最後に残した、あの何気ない一言だった。
『お義姉様を好きになる価値など、微塵も感じられない――と』
その言葉だけが、何度追い払おうとしても脳裏へ浮かんでくる。
もちろん、レオンハルトがそんなことを言うはずがないと、頭では分かっている。
あの人はそんな言葉を、わざわざ人へ伝えるような方ではない。
それに、これまでの数ヶ月を思い返せば、セシリアの言葉が嘘であることくらい分かるはずだった。
それでも。
(…もし、万が一にでも、それが本当だとしたら)
そう思うと、胸の奥がひやりと冷える。
ほんの僅かでも疑ってしまえば、これまで積み重ねてきたものまで、すべて嘘だったように思えてしまう。
そもそもリリエは、人を信じることが得意ではなかった。
幼い頃から、誰かに手を差し伸べられることなどほとんどなかったからだ。
かつて、自分へ優しくしてくれた者もいたし、味方になろうとしてくれた者もいた。
けれど、そのたびに父の手によって引き離され、最後には裏切られることになった。
誰かを信じれば、いつかその手を振り払われる。
優しくされれば、その優しさには何か裏がある。
そんな考えが、いつの間にかリリエの中へ染みついていた。
「……さま」
ぼんやりと霞む意識の向こうから、誰かの声が聞こえた。
「奥様…!」
はっと顔を上げると、いつの間にか、部屋の扉が開いていた。
そこにはワゴンを押したハンナが立っている。
ワゴンの上には湯気の立つティーポットと、小さな銀器に盛り付けられた果物のジュレが載せられていた。
「奥様、随分とお顔の色が優れませんわ…大丈夫ですか?もしや、お熱が…」
心配そうに覗き込まれ、リリエは慌てて首を横へ振る。
「……大丈夫よ」
そう答えたものの、自分でも分かるほど声に力がなかった。
ハンナはしばらくリリエの顔を見つめていたが、それ以上は何も尋ねなかった。
代わりに、いつものように穏やかな笑みを浮かべながらワゴンを傍へ寄せる。
「本日は白桃のアールグレイをご用意いたしました。お身体が優れないようですので、失礼ながらお菓子は果物のジュレを」
「…ありがとう、ハンナ」
「どういたしまして」
ハンナは手際よくテーブルの上を整えていく。
白い陶器のカップへ紅茶を注ぐと、ふわりと白桃の甘い香りが立ち上った。淡い琥珀色の液体は光を受けて柔らかく揺らめき、その隣に置かれた透明なジュレの中では、細かく刻まれた桃や葡萄が涼やかに輝いている。
見ているだけなら、どちらもとても美味しそうだった。
――ああ
本当に、美味しそう。
…それなのに。
ほんのり桃色を帯びた紅茶を見つめていると、ふいにあの日の光景が蘇った。
桃色のドレス。
桃色のリボン。
扇子の奥から覗いた、あの笑み。
「……っ」
知らず知らずのうちに、指先が震えていた。
それを隠すように、もう片方の手を重ねる。
けれど、ハンナは見逃さなかった。
「奥様」
すぐさま傍へ駆け寄り、そっとリリエの手を包み込む。
「やはり、お身体が優れないのではありませんか?」
「…ごめんなさい」
リリエは俯いたまま、小さく息を吐いた。
「少し…横になりたいわ」
「もちろんですわ」
ハンナはそれ以上何も聞かなかった。
すぐにリリエの腕へ手を添えると、立ち上がるのを支えながら寝台へと誘導する。
数歩歩いただけなのに、頭の奥がぐらりと揺れた。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「…ええ」
ようやく寝台へ身体を預けると、ふかふかに整えられた布団がやさしく身体を受け止めた。
ハンナはすぐさま洗いたての毛布を引き寄せ、肩までそっと掛ける。
その手つきがあまりにも優しくて、リリエは目を閉じた。
何も考えたくない。
今だけは、何も。
けれど、目を閉じれば閉じるほど、脳裏に浮かぶのはあの日のことばかりだった。
――このまま。
このまま、何もかも忘れて眠ってしまえたらいいのに。
そんなことをぼんやりと思いながら、リリエは静かに意識を手放していった。
お久しぶりです。
多忙が続きなかなか執筆が出来ずにいましたが、少し落ち着いたのでのんびり再開しようと思います。お待ちいただいた方々には申し訳ありませんが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




